2009年8月31日月曜日

032 ナンディスワラの寄付のしかた(2)


ナンディスワラを寄付するのはよいが、わたしの名前だけが残るというのは面白味に欠ける。事の子細をアピアピの関係者にPRして、寄付を集めることにした。

1週間のうちに、申込みが続々とやってきた。それで、31名の申込者から44名の名義で必要経費の2倍近くもの寄付が集まってしまった。
これは正直言って、全く予想しなかった事態である。そんなにたくさんの名前を刻字できるだろうか。それから、お金が随分余ってしまうのは、どうしたものか。

刻字については一応のルールをつくって、どうやっても全員の名前を彫ることにした。

余ったお金は、プールしておいて次にお寺で何か建設する時の足しにする。たちまち、バライ・クルクル(日本流にいえば半鐘小屋)の建設計画があるそうだ。

土台を作る左官屋さんと相談して、プレートの大きさは28cm×40cmが2枚ということになった。それを決めて、スカワティの大理石屋さんに行く。

「字が多すぎてとてもそのサイズにははいらない」

というのを、物差しを当てながら原稿を目の前で切り貼りしてみせて、何とか納得してもらった。

「なるほど、ではやりましょう」

料金は一人分が1万ルピア見当で、合計45万ルピアとのこと。かなり繊細な仕事になる。

「3日後に下書きを作っておきます」

最初の、レイアウトに対する熱意のなさからみて、多少の不安があったが、当日出かけてみると見事に下書きができていた。さすがプロである。大理石の石板に白い塗料を塗って、その上に鉛筆で44名分の名前の字の形が書いてある。手慣れたラインだ。

ちょっと修正してOKを出したら、いきなり彫刻の作業が始まった。
バリ人には珍しく度のきつそうなメガネをかけた若いアンちゃんが、上半身裸で石板の上に覆い被さるようにして、細かいノミを木槌でこつこつ打ちながら、一心不乱、巧みに彫っていく。
「わだばゴッホになる・・・」とつぶやきが聞こえてきそうな気迫である。

彫りながら、タバコを一吸いして左脇に置いた空き缶に待機させておく。それを時々口に運んで、フィルターぎりぎりまで吸い終わると勢いよくポーンと庭めがけて放り投げる。字の出来を透かして見ながら、また新しいタバコに火をつける。
こんなペースで、一人分をおよそ20分くらいで彫ってしまう。

3人分彫るごとに、白い塗料を削り取って仕上がりをほれぼれと確認し、やってもやらなくても変わらないような些細な修正のノミを入れる。

「ではやりましょう」と言ったボスは、そばの椅子にのんびりと腰掛けて、皮膚病のせいでまだらに毛の抜けたみすぼらしくもあわれな白い子犬の体に、シッカロールをパフパフ擦り込んでいる。
子犬は逃げたいのに尻尾をつかまれて、石粉だらけのコンクリート床の上でもがいている。もう、彼の体に擦り込まれているのは、シッカロールだか石粉だかわからない有様だ。

傍らではあいかわらず、汗で光る黒い左腕がノミを握って石板の上をワイプしていく。右腕の、これまた黒光りする木槌が、コツコツコツコツとリズムを刻みながら、そのノミの尻を追いかける。
やがて、火のついた短いタバコがポーン。もだえる子犬。
単調だけれども、ゆっくりゆっくりとことが進んでいく、熱帯の空の下の木陰の作業場である。

スカワティの棟方志功の職人技と、ゆっくりだが確実な生産のテンポを実に心地よく味わいながら、石粉まみれの非日常的な空気に包まれて、わたしはなんだか誇らしい気分になってしまった。


031 ナンディスワラの寄付のしかた(1)


マデのお父さんのバッパに、前にこんなことを言われていた。

「プラ(お寺)に彫刻を寄付しなさい。それに『ナミ』と書いておきなさい。そうすれば、私もあんたも居なくなった後に、村の人がそれを見て『ナミって誰?』と話すだろう。あんたの息子の太郎やうちのマデがその署名を見ると嬉しいだろう。彫刻を寄付しなさい。太郎とマデの時代のために」

しばらく知らん顔をしていたのだが、ある日、急にそのつもりになった。さっそくバッパに相談すると、それはよい、それはよいと大層喜んで、どこに何を置くかは難しい判断がいるので、私に任せてほしい、とのことだった。
それから、マンク氏(村のお坊さん)をはじめ何人かの重要な人への打診手続きを経た後、翌日耳打ちしてくれた答申の内容は、次のとおりである。

まず、置く場所はプラの一番正面の一番大きな門の前。そこに1対のナンディスワラを置く。高さは1.5メートル。
ナンディスワラというのは、ラクサソの中の一種である。ラクサソというのは守護神で、言ってみれば門番だ。バッパは

「ポリスのようなものだ」

と言っていた。仁王様の親戚、である。
ナンディスワラは、それぞれガドゥとチャックロウを持ったものにしなさいとのこと。いずれも携帯している武具の名である。

正面の大門の前に置くのには、ふたつの理由が挙げられた。
ひとつは、誰の目にも見えてよくわかるから、という理由。これにはバッパ一族の見栄が多分に働いているようでもある。

もうひとつは、プラの中の場所の性格がまだよく決まっていなくて、これから徐々に決まっていくからだそうだ。
天国に一番近い所とか、何とか、性格付けがされていくらしい。それに伴って、現在置かれている種々の神像は、新しい適所に移される可能性がある。正面の大門は、もうその心配はない。これには、説得力がある。

ただ、他の像が適所に移されるとしてそれは何年後のことかとは、敢えて聞かなかった。ひょっとしたら50年後のことかも知れない。そうすると、太郎やマデの時代ではなく、太郎の子供やマデの息子のトリスタンの時代ということになる。

ともかく、正面の大門の前にガドゥとチャックロウを持った高さ1.5メートルのナンディスワラを1対置くことになった。決めてからあらためてプラを見渡してみると、おそらくこのプラの中で最も巨大な神像となることに気づいた。そういえば、仁王様も大きい。

これには、さらに後日談がある。

日本に帰ってから、電話がかかってきた。その後再びマンク氏に相談すると、高さは3メートルでなければね、ということになったらしい。
前の話しと違うではないか、ということはいつものことなので、さして驚かない。
それから、置く場所も大門の前ではなくて、さらにその前面の大階段の下がよかろう、ということになったのだという。あそこなら、確かに3メートルくらいの高さがないとバランスが悪いだろう。

さらに、そういうわけで少し値段がはる、という話しが最後におずおずとつけ加えられた。どのくらい? 返ってきた答えは、並の給料取りの、どうかすると70ヶ月分!の金額であった。
バリでちょっと気前のよい風を見せると、たいていこのように事が運ぶ。このプロジェクトは、その後さらに大掛かりなことになってしまうのだが、そのことは後で紹介する。


2009年8月24日月曜日

030 電力事情


バリの電力は220ボルトで供給される。ただし、これは公称で、定格電圧が出ることは滅多にないらしい。現地の事情通の話によると、夕方の電力需要が大きい時には170ボルトまで下がることがあるらしい。
ついでに言うと、電力需要の多くは、各戸にほんの数個ずつついている10ワットか20ワットの電球である。これが夕方に一斉に点灯されて、大きな送電ロスを生む。

電圧変動は、別にテスターでモニターしなくても、電球の明るさで体感できる。
アピアピのテラスの壁面につけられたほのかな照明灯が、ふうっと暗くなったり、ふうっと明るくなったりする。
といって、別に困るほどのことではない。もともと電灯をつけたって、それほど明るいわけではなく、本を読むにはさらにランプを灯さなくてはならないのである。

困るのは、停電だ。大ざっぱな印象では、1日数回は停電になる。大抵は数分間、長くても1時間程度で復旧する。

運悪く、滞在中にまる3日間も停電したことがあった。1日2日は困らない。しかし、3日となると差し障りが出る。高置水槽の水がなくなってしまうのである。
ポンプが回らなくては井戸から水を揚げられない。料理は、ミネラルウォーターを使えばなんとかなるが、シャワーやトイレが使えない。

管理人のマデが嬉しそうに

「こうなったら、マンディ場に行くしかない」

という。マンディは、いわゆる沐浴のことで、村には何カ所かそのための場所が設けられている。
ただし、谷に下りて行くための階段がある程度で、囲いや水槽があるわけではない。素っ裸で岩を伝って、シルトやその他もろもろの混じった流水に身を浸すのである。
マンディできるようになれば、バリ通も一人前だと言われている。私が降りていくと、先にマンディしていた村の青年や娘たちが大喜びで

「ナミさん、バリニーズ(バリ人)!」

と、はやし立てた。ちょっと嬉しい気分。

印象的だったのは、アピアピが長期停電で大騒ぎしているのに、村の連中は全く平常だったことだ。何で停電が困るのか、という顔をしている。

電力がこんな調子なので、これではコンピュータを使うのにも不便だろうと思って、後日、強力な定電圧装置付き電圧変換機と無停電電源を秋葉原で購入して据え付けた。しかし、使わないままコケむしている。

バリでは、ちっとも困らないのである。


029 ヤシの木


ヤシの木の幹には、年輪がない。輪切りにしたのを見ると、導管がまんべんなくぎっしり詰まっているだけで、ほとんど見た目の締りというものがない。
それで、ヤシの木の幹はラワンかバルサか、そんな感じの柔らかくて軽い材料だと思っていた。

ところが、実際に触ってみると、これがとても堅い。堅くてずっしりと重い。釘を打つのも大変な程だ。
よく見ると、そういえば断面が竹に似ている。竹の茎の部分を中空部分にまでぎっしり充填したものと思えば、釘が立たないのも、重いのも道理だ。
ヤシの木の幹を柱にして、ひょいひょいと大スパンの屋根を支えている建物や、柱一本で重そうな方形屋根を傘のように載せている四阿をみて、心許ないなと思っていたが、これなら大丈夫だろう。

家が完成してからの話しだが、スイッチボックスを壁の上の方に取り付けようとしたことがあった。柱ではなくて、ヤシの木を挽いた板でできた、いわゆる回り縁に木ネジで固定しようとしたのである。

はじめに、木ネジ用の穴をキリであけようとしたが、これがほとんど穴にならない。
しようがないから、ハンドドリルを買ってきて続きをあけようとしたが、これも印がつく程度にしか歯が立たない。
やっとこさ申し訳程度の穴があいたところで諦めて、今度は力づくで木ネジをねじ込もうとしたら、なんと、木ネジの方がネジ切れてしまった。後日、日本から買っていった木ネジで再挑戦した時にも同様であったので、これは決して木ネジの品質のせいではない。
ネジ切れた穴は使えないので、場所を変えて再びハンドドリルで根気良く穴をあけることにしてがんばっていたら、なんと、今度はドリルの刃先が穴の中で折れてしまった。

すべてを諦めて、最後にどうしたかといえば、再度場所を変えたうえ、釘を思いきりぶち込んで、これ以上はいらないで余った部分を横に折ってやっと固定したのである。
いかにも不細工だが、ヤシの木が相手ではしようがない。さように、ヤシの木は堅い。

アピアピの柱もヤシの木だ。10本で大きな屋根を支えている。従って頑丈である。
真ん中の2本は、棟木までの高さが7メートル、そこまでの長尺物が手に入らなかったとみえて、下部6~70センチは幹の径にあわせたコンクリートの円柱を現場打ちで継ぎ足してある。むしろ、このコンクリートの柱の方が、何となく危なっかしい。
この柱を立てるときは、その重さを想像するとさぞかし大変だったろうと思う。残念ながらまだ見ていないが、うちの建築主任のラーマは、その様子をわざわざビデオに撮ってあるそうだ。

ヤシの木は堅いだけでなく、重い。水に入れても沈む。強烈なスコールが降った後は、たいていどこかのヤシの木が雨の重みで倒れている。根っこが球状で転倒しやすいらしい。
これを私は風倒木ならぬ雨倒木と呼んでいるが、雨倒木で道路が塞がれて通行止めになることもある。直撃されるとたぶん車はぺっちゃんこだ。恐い。

着工前のアピアピの敷地内にヤシの木が数本生えていた。何も知らない私が、風情があるから残してくれと言ったら、関係者だけでなく通り掛かりの人までが加わって、血相を変えて猛反対した。当たり前だ。

堅くて重いヤシの幹は、堅固な建材や家具材として利用する。
あんなに堅いのに、大工さんは手斧とノミだけで、かなり複雑な加工をする。アピアピの螺旋階段もヤシでできているが、その手際よさには、恐れ入った。

ヤシの実は、中のジュースを飲み干した後、殻を燃料にしたり炭にしたり、繊維を飾りに利用したりする。葉っぱは手際よく小箱に細工して日々のお供え物(チャナンサリ)の入れ物などに使う。

ヤシの木がなくては、バリの暮らしは成り立たない。


2009年8月21日金曜日

028 石像の彫りかた


6月、ペネスタナンのお寺(プラ)で、石彫りに精出している職人たちがいた。
お寺は改築して4月に盛大なオダラン(お祭り)をやったはずなのだが、新築した建舎のひとつの入口周りがとうとう未完成のままで間に合わなかったらしい。あらためて石の階段を作り、その手すりを兼ねた一対の大きな竜を、よってたかって彫っている。

お寺の中には小さな建舎がいくつもあり、階段の竜はこれが完成すれば計3対になる。ナーガという名前らしい。
誰が考え出したのか、階段の手すりを蛇や竜で飾りたてる風習はアジアのいたるところに見られるが、なかでもこのナーガは、上海やバンコックなどのそれと比較すると姿が単純でパワーがある。
手足がないから、竜ではなく蛇かもしれない。

職人は、6名がかりである。ボスは30歳前のロージャ氏。他は皆若い。ひとりは27歳、もうひとりは24歳と言ったが、平均年齢は25歳程度か。
全員ギヤニャールのスカワティ村、シンガパドゥのバンジャールから来ている。石も、その近辺から持ってきたらしい。

石というよりも粘土に近い。この近くのバツブラン村でとれる石は、美しい地層模様の入ったちょっと柔らかい石で、色や質感はこれによく似ている。しかし、こちらはむしろ、ちょっと硬い粘土と言ったほうがよい。
普通のコンクリートブロックより一回り大きく、逆に厚みは少し薄いサイズに整型してある。

これを積み上げて、大まかな形をつくる。積み上げるには、石材にカンナ(!)をかけて面を平らにした後、すでに積んだ石に擦りあわせて密着させ、ほんの気持ちだけセメントをふりかけて接着する。

積み上がった塊を手斧で荒削りし、タガネのようなもので形を整えて、最後は糸のこの刃で作ったノミでチョコチョコ擦って仕上げる。

これが中間仕上げである。本当に完成させるには、さらに小さなノミを用いて、繊細な装飾模様を全体に施す。

一般には、この工程のどこで止めても一応完成した気持ちになれるようだ。

大まかな形に積み上げただけのものがたくさんあって、件数的にはこの段階で終わっているのが大半である。仕上げると何になるのか、おおよその想像はできるので、「例えばここにナーガがある」というつもりになれるから、それでいいのだろう。

しかし、中にはよくわからないものもある。たぶん、次に仕上げる人の創造力に任せる場合もあるのだろう。次に、というのが何年後なのかは、おそらく誰にもわからない。大まかな形のままですっかりコケ蒸して、それはそれで重厚な作品化したようなものも多い。

お金ができると、中間仕上げまで持っていく。さらにお金ができると、最後の装飾模様を施す。
このプラの3対のナーガは、1対がここまで行っていて、1対が大まかな形のまま、今作っているのがどうも中間仕上げ止まりのようだ。したがってここに来ると、「ナーガの作り方」の3駒写真がいっぺんに撮影できる。


横で見ていたら

「やってみる?」

といっていきなりタガネを渡された。下手に削りすぎると大変だ、タガネはいかにも勇気がない、というと

「大丈夫、まだ完成でないから」

と、暢気なものだ。失敗しても石材を継ぎ足すなどの修復が可能なのだろうが、あまり迷惑をかけてもいけないので、糸のこの刃に持ち替えて、仕上げを手伝うことにした。

右手で構えて左手を添えて、サクサクと削っていく。この感じはとても快適で、思わず気が入ってしまった。木彫よりもはるかに楽である。

暇なときには、どこかの彫刻現場に行って手伝わせてもらうのもよい。確実に、数日はつぶせる。

2009年8月20日木曜日

027 バリ料理の食べかた


パダン料理というのがあって、バリ島でも結構流行っている。パダンはスマトラの地方の名前である。

パダン料理店にはいると、だまっていても目の前に皿がたくさん積み重ねられて出てくる。
どれもこれも黄色くて、同じように見える。しかし、よく見ると、それぞれの皿に盛られているのは、鶏の足、内側にゲソを詰め込んだイカ、ゆで卵、小エビの炒めたもの、キャベツなど、結構いろいろだということがわかる。いずれもクニルという香辛料のはいったスープで煮立てられて、生姜色をしているのだ。
とてつもなく辛いものもあるが、たいていは口に合って旨い。好きな皿だけとって食べて、後で精算する。白いご飯と飲み物は、別に注文する。

パダン料理の食卓には、念のためにスプーンとフォークとが添えられているが、この野性的な食物を礼儀正しくしとやかに食べる人はいない。たいていの人が手で食べている。

それから、バリ島の最もポピュラーな食べ物に、ナシ・チャンプルがある。

鶏肉や豚肉、野菜の煮たものがご飯と一緒に盛ってあって、これまたクニルのスープがかかっている。日本で言うとチャンポンご飯である。おそらく、チャンプルとチャンポンの語源には共通するところがあるのだろう。チャンプルは、“まぜまぜ”というほどの意味、ナシはご飯のことである。
村のワルン(よろず屋)にも売っていて、これはテイク・アウトできるのでナシ・ブンクスという。ブンクスは“包む”こと。バリ版ほか弁である。
ナシ・ブンクスは、片面に油を引いた包み紙を上手に折って包んであり、そのまま開いて左手に載せて、歩きながらでも食べられるようになっている。

ナシ・チャンプルやナシ・ブンクスをフォークや箸で食べる人も、まずいない。

手で食べるには、ちょっとしたコツがある。うまくやらないと、例えばご飯つぶがばらけてしまったり、口に入れる時に周りに付いたり落としてしまったりする。

まず右手の親指と小指を曲げて、残った3本の指を皿の中で弧を描くように撫でて食べ物を集める。集めた塊りを、同じ3本の指でひょいと内側にすくって、そのまま口に持ってくる。口の手前で、曲げていた親指の背ではじくと、塊りがポンと口に入る。その間、指先の描く線は実に滑らかで、澱みがない。
ネイティブたちの手さばきは、流れるように美しい。

玉村豊男氏は、ナイフ、フォークを使う食べ方、箸を使う食べ方、手で食べる食べ方について、詳細な描写と分析を行い、この順番で野蛮度が下がっていくと結論づけて、手で食べる作法の上品さを高らかに称賛しているが(「文明人の生活作法」)、これは実際にやってみればすぐにわかることだ。

手さばきの優雅さや色っぽさを体得するには多少年季を要するものの、手で食べる利点は初心者にでもすぐに納得できる。

まず、ナイフやフォークあるいは箸と皿とが接触するときに発する、カチャカチャという音がしない。これは当然だ。
それから重要なことは、舌よりもやや鈍感な指先でもって、これから口に入れようとする食物の固さや温度を予めチェックできる、つまり、舌触りについての予備知識を持てること。細かい骨なども事前に指で取り除いておくことができるので、口に入れてからシーハーしなくてすむ。
ひょっとしてどこかの種族では、指先である種の味、例えば辛みのチェックをできたりするのかもしれない。

安心して食べられるから、表情もゆるみ、なごやかさがでてくる。

バリでは、ナシ・チャンプルやパダン料理を手で食べることをお奨めする。ただしその間、トイレでは右手で紙を使わないよう気をつけたほうがよい、と思う。


026 バリの運転事情(2)


I氏は、ウブドゥに長く住む日本人のおじさんである。名古屋の出身と聞いた。
わたしがバリに行き始めた1980年代には、すでにウブドゥ近郊に日本料理の店を出していた。運転免許について、彼から聞いた話しがおもしろかった。

I氏はバイクに乗っている。乗り始めるときに、免許をどうやって取ろうかと研究した。詳しいことは忘れたが、いろいろと方法があるのだそうだ。教習所に通うとか、個人指導を受けるとか、直接試験を受けるとか、そういうことだろうと思う。
それで、それぞれいくらかかるか、ということを試算した。いずれにしてもかなりかかる。それで、もうひとつのオプションを思いついた。つまり、無免許で通すことである。

無免許で捕まっても、おまわりさんにいくらか袖の下を払えばそれで処理できる。
毎回××ルピア払うとして、年に××回捕まるとして、と計算すると、このほうがはるかにコストベネフィットが高い、という結論に達し、それで免許を取るのをやめた、というお話しである。

彼はさらに、その後、皮算用よりも捕まった回数は少なく、大正解だったということを、真面目な顔で淡々と語った。

「それに、捕まっても、『わたし、インドネシア語できませ~ん』という感じで、日本語でわあわあ言ってると、相手も困って、しゃあないなあ、とタダで放免してくれるケースが多いから、さらにお得ですね」

すこし考えさせる行状ではあるが、とりあえず笑える。

わたしの経験をいうと、これまでに免許証の提示を求められたことは、ただ1度しかない。
なんでもない時に突然警官に止められて、「はい、免許証」と言われた。ところが、いつも携行していた国際免許証を見せると、驚いたことに「これは何だ?」と受け付けてもらえない。それで、だめもとで日本の免許証を見せたら「OK」ということになった。
国際免許というのは、いったい何だったのだろうか。それ以来、わたしも厳密には無免許で通している。

もうひとつ、運転で捕まったお話し。

夕日とサーフィンで有名なウルワツにひとりででかけてみた。
上り道が断崖の上で終わっていて、そこに大きな円形の広場があった。車をそこに止める。ほかの車は円周に沿うように無造作に止めてあって、まったく効率がよくない。わたしは、きちんと円周に直角に止めた。それがマナーというものだ。
そこから、マウンティンバイクに乗せてもらって、崖を降り、しばらく砂浜で遊んでもとの広場に戻ってみると、車の周りに人垣ができている。

なんだ、なんだ、と近寄ると、みんながはやし立てる。

「わあ、この車、止め方がよくないんだってー!」

人垣の中から、ひときわ気の弱そうな小柄な男性が出てきて、おずおずと説明をはじめた。

「ほかの車のように、円周に沿って止めなくてはいけない。あなたは、交通違反をした」
「あなたは、何ですか?」
「わたしは警官である」

確かに、それらしく黒い帽子をかぶっていた。いろいろと反論してみたが、この男は困ったようにもじもじするばかりで、一向らちがあかない。あきらめて、罰金はいくらかと聞くと

「10ドルである」

と、法外なことを言う。なにが10ドルだ、しかも、なんでルピアでなくてドルなのか! 頭にきたので、人垣に向かって

「この人は、ほんとうに警官か?」

と問えば

「わあ、そうだよー、そうだよー」

と返ってきた。あほらしくなって男を振り返り

「1ドルでどうだ」

というと、それでもよい、ということになり、ポケットから1ドル紙幣を出して払った。それでおわり。
それまでの人垣がくもの子を散らすようにいなくなって、当のお巡りさんも瞬く間に消えてしまった。
わたしは今でも、あれは偽警官でなければ私設警官だったと信じている。

あの時にも、そういえは免許証の提示は求められなかった。

教訓 : 車を駐車するときは、ほかの車と同じように止めましょう。


2009年8月6日木曜日

025 バリの運転事情


バリの人たちの車の運転には、慣れることができない。

彼らは、田舎の1車線の道を80キロで飛ばす。見通しの良いフリーウェイではない。両側には集落の家並みがあって、道ばたに座っている人がいるし、路上を鶏や犬たちがわがもの顔にうろうろしているのである。

前を走っているトラックの荷台には、20人もの人が乗っていることもあるし、雨の日などには頭からポンチョをかぶった3人乗りバイクが脇を駆け抜けたりする。

もっと悪口をいえば、彼らにはスピードメーターが必需品であるという感覚がない。
これまで乗ったタクシーや、借りたレンタカーの中で、信頼のおけるメーターが付いていたためしは、ほとんどない。

うちで乗っていたシビックのメーターも190キロを指したきり、ピクリとも動かなかった。この車を売りに出そうとして、新聞広告を出したのだが、その広告の文面の最後には「パーフェクト コンディション」と書いてあった。スピードメーターはいわば飾りのうちであって、コンディションの中に入らないのである。

さらにいうと、かつてヌサドゥアの超高級リゾートホテルを介して借りたレンタカーの「カタナ」(スズキのジムニーの現地バージョン)は、運転席のドアが開かなかった。持ってきたレンタカー屋の青年に

「ドアが開かない」

と文句をいったら、驚いてすぐに調べてくれたが、助手席のドアを開けて

「大丈夫じゃない?開くじゃない」

と、ニコニコしながらのたもうた。もう、びっくりさせないでよ、悪いんだから、という調子である。運転席が開かなくても、助手席から入れるんだから、なあんにも問題はありはしないのだ。

おかげで、何日か借りている間、助手席からにじり入ったり、運転席の窓から逆上がりをしながら潜り込んだり、いろいろな工夫を余儀なくされたが、考えてみればそのことで「走る」という車の機能に、何ら障害があったわけではない。

今でも問いつめられれば、スピードメーターや運転席のドアは必要ではないかと私は思うのだが、それがないと車が走らないかといわれると、心が揺らいでしまう。
彼らには彼らの理屈があって、そういうものはアクセサリーにすぎないのである。
その理屈を貫徹して進んでいけば、とてつもなく新鮮で刺激的な環境システムが実現するのではないか、と想像するのだが、しかし、それは無理というものだろう。

例えば

「うちの車はすべて運転席のドアが開きます。これがパーフェクトというものです」

というレンタカー屋さんが現れれば、件の青年は心を入れ替えざるをえなくなるだろうし、ドライバーも

「そうでなくちゃ」

という気分に簡単になってしまうだろうから。
地球時代の文明は、平準化の方向にしか進まなくなっている。


さて、スピードの話しに戻る。
ときどき、恐さのあまり、顔をひきつらせてたしなめることがある。

「おい、マデ、急がなくていいからね!」
「・・・・・・」
「スピードを落としなっさい!!」
「・・・・・・」

マデは納得しないまま、それでも少しスピードを緩める。すると、後ろの車がいらいらしてクラクションを鳴らし、パッシングしたあげく、さっと追い越していく。マデは我に返って、私の要請を忘れ、条件反射のようにスピードを上げて抜き返す。

バリで私は1分を争うような用のあったためしがない。いつも時間には充分余裕がある。バリの多くの人たちも同様のはずだ。でなければ、約束に3時間も遅れて謝りもしないし誰も怒らない、というような社会秩序を維持できるわけがない。

それなのに、自動車はなぜ、こうもあくせく走るのか。

悩んだあげく、私はこう考えることにした。彼らの言い分は、こういうことではないか。つまり、

「車は早く着くために使うのだから、とにかく速く走らせることが大切に決まっている。そうでないのなら、歩けばよい。速く走らせるには、他の車と利害がぶつかるのは当然である。その時は、とにかく勝つか負けるかなのだから、譲るなどというのは愚の骨頂だ。それがいやなら、最初から歩けばよい」

我ながら実に明解な理屈だ。そういうわけで、あらゆる道路上では強い者が勝つというシンプルなルールにもとづいたカーチェイスが、日夜繰り広げられている。

「それがいやなら・・・・」

という目で見られるのがうっとうしくて、最近はもう半ば諦めて文句を言わないようにしているが、慣れたかといわれると、それは別問題である。


2009年8月3日月曜日

024 カフェAPI-API


API-APIの隣にカフェをつくった。本体が完成してから数年後のことである。

カフェは、ウブドゥの「クブク」(004回参照)を見習って、ライス・フィールド・ビューが売り物である。
客席に腰掛けて田圃を眺めると、その中を遥か向こうからのんびり蛇行して近づいてくる一本道がよく見える。

これは、網を張るには好都合だ。一本道を汗びっしょりになって歩いてくる観光客が見えると、見張りが「タムー、タムー(客だ客だ)」と叫ぶ。
それを聞くと、うちのお手伝いさん兼カフェの看板娘のヌンガが道に飛び出して待ちうけ、ニコニコしながら声をかける。

「ウェア アーユー ゴーイング?」

これで、3組のうち1組くらいはカフェに引っぱり込むことができる。こうやって蜘蛛助みたいな客引きをするのは、なかなか楽しくて、皆が交代で見張りや連れ込み役を引き受けては、成功する度に万歳を三唱した。
隣村のカティック・ランタンに巣を張り、客を騙してつまらない絵を法外な値段で売りつけているニョマン(015回参照)の気持ちが、少しわかる。

こういうカフェに寄る客は、まずは地獄に仏を見る思いでコールド・ドリンクをむさぼり飲む。
それから、安堵感のためなのか、そもそも好き者でないとこんな店には立ち寄らないということなのか、来る客はひとり残らず話し好きで、社交性に富んだ人たちである。

カフェ・アピアピの栄えあるお客第一号は、奇しくも日本から来たYさんという男性だった。当時49歳。ひとりで、「たまには中央線に乗って高尾あたりでも散策してみるか」といった軽い出で立ちでひょこひょこやってきた。
ところが実は、あてもなく日本を出てもう1か月になるのだという。

まずバンコクに行って、チェンマイ経由で中国の雲南省に入り、また再びタイに戻って、そこから直接バリにたどり着いたばかりとのこと。
空港に降りたってすぐタクシーに乗り、まっすぐウブドゥに来たというから、なかなかの通かと思ったら、バリははじめてだという。1か月の間に、随分鼻が利くようになったらしい。
バリの後は、ネパールに行ってみたいとのことだった。

一体どういう仕事かと伺うと、会社を辞めて失業中の傷心旅行なんですよ、とさびしそうに答えたこの人も、実に話しの好きな人だった。そうですか、私が最初ですかと感激してくれた。マデの話しによると、Yさんはその後も何度か寄ってくれたそうだ。

二組目にやってきたのは、オランダから来たカップル。ソウル生まれで、コンピュータシステムのコンサルタント会社の技術者という好青年と、その彼女と思しきオランダ美女。

ココナッツ・ジュースが飲みたいという。
メニューには用意してなかったのだが、さっそくヌンガが台所に走っていったと思ったら、程なく椰子の実にストローを突き刺したジュースがふたつ、お盆に乗って出てきた。

よくあったな、と聞いたら、ちょうど仕事を終えて休憩していた左官職人をつかまえて、実をとってもらったのだという。値段のつけようがないので、オープン記念のプレゼントだというと、逆にオープン記念にといって1万ルピア置いていってくれた。
マデはそれを見て、「いつも『ジャスト・オープン』だと言いましょう」と喜んだ。

うちの客はあまりメニューを気にしない。メニューにあろうとなかろうと欲しい物を注文する。
この後でやってきたイギリス人は、マンゴーを所望したそうだ。これは、やはりヌンガが機転をきかせて、村のワルン(よろず屋)に買いに走ったらしい。

3日目にやってきたトロントのインテリア・デザイナと、その後に来たドイツの若いお医者さんは、それぞれトーストとジャッフルを食べていった。これは客にも作る側にも好評だったようなので、後でメニューに追加した。

開業当時の話しをしたのは、実はこれが最盛期だったからである。

メニューにないものは無料にしてしまうし、マデがオーストラリア人の観光ブローカーに丸め込まれてほとんどただ働きさせられるし、といったようなことがあって、全然ビジネスにならなかったようだ。ひょっとしたら、旅行会社をはじめたP氏(010回参照)のような振る舞いもあった可能性がある。

何年かは営業していたものの、そのうち、飽きてしまったのか、いつのまにかうやむやになって、いまはとうとうトイレつき無料休憩所となってしまっている。
でも、眺めがよいし、道からちょっとはいっているせいで落ち着くので、朝ご飯を食べるときに使ったりしている。

ウブドゥに行かれることがあったら、ぜひお立ち寄りいただきたい。ペネスタナンのカフェAPI-APIといえば、わかると思う。たぶん。