2009年7月31日金曜日

023 バンジャール


バリ人は、何階層もの社会集団に属している。
これは、おそらく世界中そうだろう。会社の仲間、町内会、××組合、親戚づきあい、公民館のサークル、など、考えてみればそれらが複雑に入り組んで身の回りの社会を構成している。

バリの場合はどうか。
まず、慣習村といわれるものがある。これは宗教的集団でもある。慣習村は、複数のバンジャール=集落共同体で構成される。

例えば、ウブドゥ郡のなかの行政的な村であるサヤン村には、いくつかの慣習村が含まれるが、そのうち、ペネスタナンという慣習村は、ペネスタナン・クロッドとペネスタナン・カジャというふたつのバンジャールでできている。
慣習村ペネスタナンは、それぞれ役割の異なるワンセット3つの寺を共有し、お祭りなどは、慣習村として行う。いっぽう、さまざまな日常生活上の必要、たとえばいざこざの調整などは、それぞれのバンジャールの中で共同で処理している。最終調停のために、人望のあるマンクさん(お坊さん)がバンジャールにいる。

API-APIの近くで突然大蛇が出現し、上を下への大騒ぎになったときも、いち早く伝令がマンクさんへ飛んだ。「それは、森の守り神ではないから、殺してもよい」という裁定をもらって、きゃあきゃあ逃げ惑いながら、とうとうみんなで叩き殺した。「近所にこんなのがいるのか」と驚くと同時に、マンクさんの裁定の重みにも感心したものである。

マデによると、彼はもとはペインター(絵描き)だったがある日突然目覚めて僧侶になったという話しだ。私が初めて会った時は38歳ということだったが、いかにも威厳があって、60前としか見えなかった。20歳近く若い奥さんがふたりいる。

ちなみに、ペネスタナン・クロッドの人口は約千6百人で、バンジャール・メンバー数は336人ということだから、日本でいえば世帯主がメンバーということだろう。

マンクさんのほかに、「村長」さんが役割や任命形態に応じて複数いるらしい。その仕事場も、役場であったり自宅であったりするらしい。身分証明書をもらうのに、あっちの村長さんでなくて、こっちの村長さんだとかいう、ややこしい話しがあって、結局よくわからなかった経験がある。

バンジャールのほかに、スバックという、日本で言えば水利組合にあたる組織がある。スバックは、耕地の所有、管理を行う。

バリ島全体は、アグン山とその周辺の火山が作ったなだらかな裾野でできていて、そこを小さな川が幾条も放射状に流れ下る。その谷は、狭く深い。
集落は尾根に沿って立地し、尾根から渓谷の斜面にかけて棚田が開墾されている。棚田は、ところによると2~3メートルほどの幅しかない精緻なものだ。いわゆる千枚田である。黒土を使ったほとんど直壁に近い土破で、なめるように手入れされている。ライステラスは、バリの観光資源でもある。
中に、電線がのたうちまわっていないのがよい。

川は集落や水田のずっと下を流れているので、利水のためには、はるか上流から細い水路を延々と引いてこなければならない。当然、水田への水掛りの順番や権利の関係は微妙でかつ死活問題でもある。
したがって、このスバックの結束と権力は大変強いらしい。時々、高々と固有のエンブレムを掲げたスバックの事務所を見かけることがある。

そのほかの社会集団といえば、前にふれた集落内の土塀で囲まれた大きな敷地で営まれる居住単位は、父系の親族集団である。それから、たとえばコーヒー摘み組合、舞踊集団など、目的をもって結成された任意の私的集団がたくさんあって、集会所ではしょっちゅういろんな会合が開かれている。

バンジャールの集会所は、バライ・バンジャールという。たいてい幹線道路に面して設けられていて村のへそになっている。昼間でも必ず何人か人がいる。
床の段に腰掛けてぼうっとしていたり、ぼそぼそ話しをしていたりするが、いったいあれは何をしているのだろう。

バンジャールの入口には必ずバリ特有の「チャンディ・ブンタル(割れ門)」があって「ようこそ××村へ」と書いてある。出口にも「ごきげんよう」の割れ門がある。バンジャールの境界ははっきりしているし、住民の帰属意識は大変強い。

バリ州の観光局の幹部にお会いして話しを聞いたことがある。
最近の観光入込客数では日本人がオーストラリア人を越えて第1位になったとか、バリ島の主な地域では高さ15m以上の建物は原則として禁止されている、なぜ15mかというとそれが標準的な椰子の木の高さだからだとか、そんな話しを聞かされてから、「バリの観光行政で最も大切なことは何ですか?」と質問した。それに対する彼の答えは

「バンジャールを守ることです」

というものだった。
バリの観光資源は伝統文化と田園の風景である、それを守るのはバンジャールの団結である、というわけだ。


2009年7月23日木曜日

022 ロンボク海峡の渡りかた(2)


日本の船の1級ライセンス(小型船舶なのだが)をもった人が操船してくれることになったので、クルーたちは大喜びでクモの子を散らすようにいなくなってしまった。
遊びに行ったのである。

その後のコックピット内の様子。

まず、船長はマクルフ氏である。この人は、出航後ずっと部屋の隅の床に敷いたゴザの上で眠りこけていたので、とうとう話しをする機会がなかった。入港時に気が付くと、いつのまにかきちんとキャプテン・チェアに座って、それなりにボスの格好をつけていた。

わたしに操舵輪を委ねたイスミアルト氏は、部屋の中をあちこちしながらだべったり、お茶を飲んだりして過ごしていたが、途中、外のデッキ上に10人ほどの米国人青少年グループがあられもない様子なのを発見して、はしゃぎながらカメラで撮ったり、からかったりしていた。

彼らは、くそ暑い甲板の上で、男女ともほとんど半裸になって、いちゃついていたのである。

それでもイスミアルト氏は、必要な時にはひょいとわたしの傍らに現れて、

「はい90°」

とか

「はいこれから105°」

とか適切な指示をして操舵手としての責任を果たし、また彼のレクリエーションに戻っていくのである。

ルンバル港に入る直前、わたしと交代してからは、まるで人が変わったような真剣な目つきで、石の崩れかけた相当ワイルドな岸壁に、機関操作だけで巧みに接岸した。さすがプロである。

背が高くておしゃれなアルヤ青年は、船員のはずだが、結局何の担当かはわからなかった。最後まで女の子とおしゃべりしたり、大きな声で楽しそうに歌を歌ったりしていただけで、船の用を果たしている風がなかったからである。
時々、私のところにやってきてコーヒーを勧めてくれた。この船の来歴も彼が話してくれた。

アルヤ青年の相手をしていた女の子はハルティニ嬢である。彼女は乗客のひとりでどこかの公務員だそうだが、船が出るなりコックピットに入ってきて、いきなり着替えをはじめたので、わたしが最初に注目した人である。
着替えはイスラムのお祈りのためであったが、それが終わった後も彼とふざけあって、最後までそこで過ごした。

ハルティニ嬢以外にも、20畳はあろうかという広いコックピット内ではいろいろな人が遊んでいて、お茶を飲んだり歌を歌ったり、カードをしたりしている。そのうち何人かは正規の船員らしいが、いったいどれがこの船のクルーだったのかは、上の3人以外にはとうとうよくわからなかった。
わたしにときどき近づいてきて、コンパスに触れようとする人がいたので、そうかなと思ったら、ただの乗客だった。コンパスの台座の途中に、かつては何かの装置がつけられていたらしい孔があって、そこに灰皿が置いてあったのである。

船は、水深2千メートルはあるというロンボク海峡を、わたしの操縦で一路東に航路を保った。幸いにして波静かな日だ。最初は全く他の船に出会わず、ひたすら大海原を進んだが、しばらく行くと右手前方にうっすらとヌサペニダの島が、正面にはもっとうっすらとロンボクの山影が見えてきた。

そのうち、こちらに向かってくるフェリーに会った。「確か、右側通行は世界共通のはず」と緊張しながらすれ違う。すれ違いながら、向こうの船の窓が見えた。手を振っているのがいる。こちらのコックピット・メンバーもきゃあきゃあ言いながら手を振っている。

日本から5千キロ離れた海峡に来て、この天真爛漫なクルーたちと大勢の乗客と、眠りこけた船長と、それにトラックや乗用車を満載して、わたしはコンパスとにらめっこしながら、ひとり緊張してラダーを握り、550トンの船を進めた。

ロンボク海峡を渡りたいという人がいたら、ぜひフェリーで行くことをお奨めする。
乗船したら、一番上の甲板に進んでコックピットを覗くこと。それに、船舶免許をあらかじめ取得して携行し、それをちらつかせること。

フェリーの高い艦橋の上から、自分で船を動かしながら見る、ロンボク島の海岸は絶景である。とくに、入り江の中をルンバル港に向けて静かにアプローチしていく途中、両岸のマングローブ林と、その中に点在する民家のたたずまいを眺めていると、地球への愛しさがどっとこみ上げてくる。

たとえ、港を降りたとたんに警察が待っていて、その場で逮捕されたとしても本望だ、という気分になる。


021 ロンボク海峡の渡りかた(1)



ロンボク島はバリ島の東隣の島である。マデが高校時代を過ごした島でもある。彼に言わせると、まだ「昔」がたくさん残っていて、素晴らしいところらしい。
ロンボクに行くには、ロンボク海峡を越えなければならない。越えるには、飛行機で行くか、フェリーで行くか、あるいは観光客用のクルーズに参加するか、小舟をチャーターするか、いくつかの方法がある。

フェリーで行ってみることにした。ウブドゥから東へ車で1時間ほど走ったパダンバイの港から、ロンボクのルンバルという港にフェリーが就航している。飛行機だと25分だが、フェリーでは4時間かかる。


大きな地図で見る

ロンボク海峡は、近いところでほんの30キロほどの狭さだが、実はここは、イギリスの動物地理学者アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが発見した「東洋区とオーストラリア区の動物相の境界線」いわゆるウォーレス線が通っていることで有名なところである。
ウォーレスは、クンバン・ジュパン号で1856年6月15日にバリ北岸のブレレン港を出て、ロンボク海峡を横断し、2日後にロンボク島のアンペナンに到着した。

おそらくウォーレス線に関係するのだろうが、ウェゲナーの大陸移動説(ウォーレスの航海から56年後の1912年に最初の2つの論文が発表されている)に依拠すると、この地域は、大昔の超大陸であるローラシア大陸とゴンドワナ大陸が、再び邂逅してぶつかった場所に近い。
プレートテクトニクスでは、ゴンドワナの末裔のオーストラリア・プレートと、ローラシアの一部の中国プレートとの合わせ目が、太平洋プレートの発達によって干渉し、ぐじゃぐじゃになっているところである。

この海は、やはり船で渡るべきではないか、というのがフェリーにした理由である。

乗ったフェリーはパダンバイ13時30分発のプル××・ヌサン××(インドネシア群島の王座)号、550排水トン、乗客定員300名、積載車両35台の堂々たる船である。
1964年に日本で建造され、1997年にこちらに移籍した。大阪から持ってくるのに14日かかった、途中しけで大変だったと、吐く真似をしながら船員が説明してくれた。

これから書く話しは、ひょっとしたら法に触れることかもしれないので、船の正式名称と乗った日時は内緒である。

客室デッキは満員で、なおかつ4時間過ごすには殺風景で退屈そうだったので、さらに梯子を登って操船デッキに上がった。
操舵室の中には、確かに日本語で「点灯」「停止」「熱式火災報知装置」などと書いてあって、その下にそれぞれインドネシア語の表示がテプラで貼り付けてある。

中を覗いていたら、船が港内を出たところで、操舵輪を回していた船員が「入る?」と誘ってきた。結局これをきっかけにして、その後3時間半の間、私ひとりでこの大きな船を操縦することとなった。

以下は、操船しながら観察したり取材したりした、コックピットの中の様子である。(つづく)

2009年7月21日火曜日

020 ウブドゥは世界の銀座の巻(つづき)


マデの実家に遊びに行って、帰りに斜め向かいの家の門をのぞいていたら、中からニコニコしながらおじさんが出てきた。「スダ マカン?」というので、「もう食べた」というと、「何か飲む?」と、本当にホスピタリティにあふれている。
バリ・コピ(バリのコーヒー)をいただきながら、彼の話しを聞いた。

「わたしは、この家の住人でバグスといいます。小学校の算数の先生です。先生の給料は本当に安い」

と、ぼやいたあと、話題は日本のことに移った。

「以前、2ヶ月ほど日本に行ったことがあります。輸出入をやっている日本人のミスターHが招いてくれた。神戸を拠点にして、東京や京都や奈良や、そうそう広島にも行った。日本料理はまずいので、青山や芦屋のインドネシア料理店によく行った。すご~く高いね。おどろいた。でも、ミスターHが全部払ってくれた。
ミスターHは、この家にも2度来たことがある。彼はカナダにも家を持っていて、東京には研究所を・・・」

えっ? ミスターHのフルネームは何ていうの? と聞いたら、わたしでも知っている高名な商業プランナーの名前を告げてくれた。そりゃすげえ、と喜んだら、バグス氏は家の中から、よれよれになったグラビア本を持ち出してきた。昭和56年発行で、H氏編とある。その中の1ページに、若いバグス先生がちゃんとバリの正装をして、笑いながら写っていた。

H氏には面識がないが、後日、そのパートナーだったM氏にたまたま福岡でお会いする機会があったので、そのことを話題にしたら

「ああ、あれはおれがHを連れて行ってやったんだ。バグスも、おれが世話をしてやったんだ。元気だった?」

という話し。世間は本当に狭い。

そういえば、API-APIの建築主任の知り合いの家を訪ねたときに、その家の長老グスティ・グデ・ラカ氏が語ってくれたイサム・ノグチの思い出話しも興味深かった。

「うちに、日本人の彫刻家がときどき来ては逗留していた。頑固で乱暴なやつで、ほかの外国人とよく喧嘩してわたしを困らせたもんだ」

と、目を細めながら話したあと、

「しばらく来なかったんだが、この前久しぶりにふらりとやってきて、自分の作品集ができたと言ってこの本を置いていった」

というその本を見せてもらうと、イサム・ノグチの作品集で、表紙の裏にご本人のサインがはいっていた。1985年4月23日の日付がはいっている。この前というのが、1985年というのもすごいが、これはノグチ氏の亡くなる3年前、彼が81歳の時のことである。このお話しには、いろいろと感銘を受けた。

API-APIの近くに、リンダ・ガーデンという広大なお屋敷があって、リンダさんという英国女性がそこに住んで竹の家具を製作している。

ある年、ここでバンブー・コングレス&フェスティバルをやるというので出かけてみた。屋敷内は竹づくしで、家から橋から野外ステージまで、あげくのはてにアトラクションのブラスバンドの楽器まで竹でできているのには感心した。

世界中から大勢の人が押しかけていて、大盛況であったが、彼女が招待した顧客のなかに世界的有名人がたくさんいて、当時のゴア米副大統領とミュージシャンのデヴィッド・ボウイが来る、といううわさであった。
彼らが本当に来たかどうかはわからなかったが、考えてみると、日本では家の隣にゴア氏が来るなどといううわさは、たちようがない。

ウブドゥは、つくづくすごい所である。

2009年7月16日木曜日

019 ウブドゥは世界の銀座の巻


マデの実家は、村の中心部にある集会所から集落内にはいっていく道の途中を折れて、さらに狭くなった坂道の路地を少し上ったところにある。道の両側は、ずっと土壁が続いていて、各家に一ヶ所ずつ門がある。
門は、道から何段かの階段をあがるようになっていて、敷地は道よりも1mかそこら高い。おそらく、スコールの時には路地が川になるのだろう。

それぞれの家の敷地はやはり土壁で仕切られていて、門をはいったところにヒンズーの神様をまつった祠(サンガ)がある。石でできていて、日本風の感覚からは屋敷内墓地かと思ってしまう。いつもそのまわりにお供えがちらばっている。

お供えは「チャナン・サリ」と呼ばれていて、ヤシの葉でつくったおよそ10cm四方のお皿に、お米や花びら、砂糖菓子などがいれてある。

神様はいたるところにおられるので、たとえば通路が交差している場所とか、水に関係する場所とか、出入り口とか、車の運転席とか、もちろんこのサンガの周辺とかに毎日お供えする。

お皿をつくるのと、お供えするのは、主に女性、とくに女主人の仕事らしい。
API-APIでも、毎日女性たちがせっせとお皿をつくり、マデのお母さんが決まった場所に配ってまわっている。片ひざをついてお供えを置き、線香の煙を手のひらで揺らがせ、その手をかざして静かにお祈りをすると、次の場所に移る。

チャナン・サリは、それでもう役割を終えるらしく、後は顧みられない。誰かが踏んづけようが、蹴飛ばそうが、犬が食べちらかそうが、まったく無関心である。
決まった場所はたくさんあるので、いたるところにゴミになったチャナン・サリがちらばっている状態になる。バリの土は、ひょっとしたら歴代のチャナン・サリでできているのではないか、と思われるほどだ。

さて、屋敷の構成の話に戻る。
サンガの奥に、館がたくさんある。木造だったり、竹製であったり、ブロックにモルタルを上塗りしてペンキを塗ったつくりであったり、いろいろだが、なかにはタイル仕上げの壁のこともある。総じて、ひんやりして涼しそうなコテージである。ここに、どういう仕分けになっているのかはよくわからないが、一族郎党が分住している。多い家では、2~30人もいるらしい。

バリの人たちを見ていると、おもしろいことに、決まった時刻に集まって食事をする、という習慣がないようだ。家にこんなにたくさん人がいるというのに、そのうちの何人かでもがテーブルについて、「いただきま~す」などとやっているのは、見たことがない。
おなかが空いたら、適当な場所で適当に食事をする、という感じのようだ。
それで、いつもどこかの片隅で、だれかがお皿を抱えてなにかを食べている、という光景にでくわすことになる。
どこかの家にふらっと立ち寄ったときの、相手の挨拶は、それが2時であろうと3時であろうと

「スダ マカン?」

「ご飯食べた?」である。まだ食べていない、と言うと、食べさせてくれる。みんなそうやって、よその家でご馳走になっているのかどうかは知らないが、少なくともマデがAPI-APIできちんと定刻に昼食をとっている姿は、あまり見かけない。

と、話しが横道にそれてしまったので、表題のお話しは、次回につづく・・・・・


2009年7月15日水曜日

018 M氏の場合



M氏は、わが村の出身で、ホテルといくつかのギャラリーを経営する立志伝中の人物である。ホテルは、バリ島屈指の景勝地であるアユン川渓谷を見下ろす35の部屋とふたつのプールをもち、従業員数160名。

このあたりには、クプクプ・バロンやアマンダリ、フォーシーズンなど、高級ホテルが立ち並ぶようになったが、彼のホテルはその中でも老舗で、その分いくぶん古ぼけてきた。それでも外国人専用の高級ホテルであることに変わりはない。オーナーである彼は裸足ながら威厳をもってホテルの中をウロウロしている。

彼はまた、高名な絵描きでもある。ビーチのさる高級リゾートホテルのロビーの天井画は彼が描いたもので、その報酬は4億ルピアだったという話を聞いた。

さらに彼は、建築の設計がとてもうまいという評判である。上手かどうかは知らないが、それが道楽であることはよくわかる。ホテルはいつ行っても工事中で、併設のギャラリーを作っていたり、事務所の内装を替えていたり、いつできるとも知れないゲストルームやレストランの工事をしていたり(これは、わたしの知る限りずっと工事中である。聞くところでは、法律違反があって中止命令だか解体命令だかが出ているのだそうな)している。今は、ホテルの入り口に石積みのゲートを新しく作り始めている。これらの現場には、オーナーのM氏自らがついて、あれこれ細かい指示を下していた。

彼には奥さんが4人いる。1番目の奥さんは、ウブドゥのギャラリーに住んでいる。2番目は例のワヤン(009話参照)のお母さんだが、すでに亡くなっていた。

3番目の奥さんは、10数年前に交通事故で亡くなった。その数日後に、ここで落ちたんだ、という話を空港からウブドゥへ行く途中でマデから聞かされた。サヌールを少し過ぎた辺りの橋の上で、左の高欄が破れていた。彼女の乗っていた車がここを破って、何10mか下の谷底にまっさかさまに落ちたのだそうだ。
彼女は、API-APIからすぐのところにある墓地に一旦埋葬され、しばらくして盛大にお葬式が挙行されたらしい。わたしが弔問したときには、まだその墓地で、新しい花束やお供えに囲まれた下に眠っておられた。

4番目のチャンドリさんはいつもホテルにいたのでよくお目にかかったが、若くて、近所でも誉れ高い美人である。彼女は3番目の奥さんの連れ子だった人で、M氏からみると妻と同時に娘ということにもなる。小さい時からかわいがって育てたので、人にやるのがもったいなくて奥さんにした、という話を聞いた。
彼女のさらに若い頃の(おそらく、画家M氏の手になる)油絵の肖像画が、フロントロビーの2階の薄暗い小部屋に何枚もかかっているのを見たことがある。

チャンドリさんは、数年前に病気で亡くなった。美人薄命である。
この間、立ち寄ってみたら、フロントのスタッフがにやにやしながらこっちを眺めていた。なんだ、と思っていたら、脇からチャンドリさんが現れたので、びっくり仰天、目を疑った。そう思ったのは、実は彼女の娘さんだったのである。赤ちゃんの頃から見ていなかったので、こんなになっているとは・・・

「ね、そっくりでしょ、びっくりしたでしょ」

と、にやにやしていたのだ。もう16歳になるというが、その上品な色気にクラクラするようだった。彼女の父であり祖父でもあるM氏も、さぞかし張り合いのあることであろう。

M氏はお金持ちなので、出身地の村で隠然たる世俗的権威をもっている。新しく作る道のロケーションに、彼がなかなか首を縦に振らないので、半年間作業が棚晒しになったことがある。わたしもその被害者のひとりだ。

API-APIの建築を始めた頃、M氏が設計図を見ながら丁寧にアドバイスをしてくれたことがある。

「人夫は、村内から半分、残りは他の地区から。そうすれば競うから。電気は引いた方がよい。自家発電はうるさいと思う。わたしは建築のオーソリティであるから、おまえの建築主任は現場でわたしに会うと恥ずかしがるだろう。でも、時々現場に行って、いろいろと教えてあげよう。本当は設計監理と施工とを別々に発注すればよかった。そうすればもっと安くあがったのではないか。今度やる時は、まずわたしに相談するように」

その後わたしのいない時に、約束どおり現場に2度足を運んでくれたそうだ。その時同席したマデが、氏の批評をとりまぜて、告げ口をしてくれた。マデにとって私はボスであるが、建築主任一派はボスの友人というよりも、敵にあたるようだ。

M氏はまず、使っているコンクリートブロックや椰子の木などの材料が家の値段に見合ったランクのものでないことをこと細かく列挙し、次に垂木の間隔の不揃いなど施工の悪さを指摘したそうだ。

なるほど、そういわれてみれば、あながち中傷ともいえない。しかし、いまさらやり直しはきかない。母屋の茅は葺き終わっているし、コンクリートブロックを積むべき部分は、塀を含めてもうほとんど積み上がっている。大部分は、モルタルの下塗りまで終わっている。
彼の指摘は、いわば難癖である。

その後、M氏に会った。彼の感想は次のとおりである。

「うん、あれでOKだ。すばらしい家になっている。オープニングには是非参加したい」

彼にとっては、わたしも敵であるらしい。


2009年7月14日火曜日

017 政府のお役人の場合


API-APIの前でぼおっとしていたら、突然ジープが止まって、半袖のカーキ色の制服に肩章をつけた4人の男がバラバラっと飛び降りてきた。家の中に早足で入っていく。何だ何だ。家には今誰もいないはずだ。わたしは驚いて彼らの後を追った。
わたしは尋ねる。

「あなたたちは何者か」

そのうちの若くて賢そうな一人が前に出て答える。

「ギヤニャール県の政府である」

それに続けて、彼は鉄砲玉のように質問やら感想やら冗談やらをまくしたてた。

「どこから来たか。そうか日本か。いつまでいるのか。どこに住んでいるのか。この家の名前は何というのか。ここの住所はどこか。朝食は何を食べた。ビーチには行ったことがあるか。お前は何歳か。家族はどこか。子供は何人いるか。バリの女性は美人だろう。私についてくるか。紹介してやろうか。そのTシャツが気に入った。この制服と交換しよう。いいか? いいか?」

と制服を脱ぎ始めたところへマデが帰ってきた。するととたんに、4人は大真面目な顔になって用件を果たし始めた。

「この家の登録免許の申請が出ていない。これからその事務を行う」

ロンボク島の沖合いの小島のホテルが、営業許可無しで客を泊めていたら、ある朝海から軍隊が上陸してきて、柱という柱を全部チェーンソーで切り倒していった、という話を聞いたことがある。それを思い出して、わたしはマデの対応を固唾を飲んで見守った。

「1回で払うのと、毎年払うのとどちらがよいか。この家にはAPI-APIのマークが描かれているので、その分も払う必要がある。さて、家具は? 土地は? 建物は? まあ、評価額は○億○千万ルピアといったところだね。全部で○○ルピア払いなさい。これが登録証である。これをあげるから、誰かが来たらちゃんと見せてね」

登録証なるものの内容と計算根拠について、4人がかりで手取り足取り説明をしてくれた。それで用が終わると

「それじゃね」

といった感じでジープに飛び乗って、あっという間に帰っていった。

バリのお役人は、ロンボクに上陸した軍隊ほど乱暴ではなく、陽気でウィットに富んでいて、親切でなおかつ機敏である。マデに

「あれは本当にギヤニャール県の役人か」

と聞いたら、ちょっと考えた後で

「たぶんそうだろう、と思う」

と答えた。そうでなかったとしても、驚くほどのことではない。
Tシャツと制服を交換しておけばよかった、と後悔した。


2009年7月13日月曜日

016 アナック・アグン・ライ嬢の場合


ニョマンのことを忠告してくれたアナック・アグン氏にはじめて会ったのは、カティック・ランタンの村はずれの畑であった。彼はそこで、鍬をふるっていたが、初対面の私が歩いているところをみつけると、わざわざ畑の中から走り出てきた。

「API-APIは、なかなかよい家だ。ところで、あなたの友人が土地を欲しいときには、ぜひ私に言ってほしい。安く売ってあげる。でも、このことは人に言ってはいけない。それから、あなたと友人になりたい。いや、ビジネスではない。時々会話をしたい」

日本人はみんな土地を欲しがっている、と思っているらしい。
なんやかやで、翌日彼の家を訪問する約束をしてしまった。家の場所の地図を、土の上に小枝で描いて教えてもらった。

翌日、約束通り家を訪ねる。家には、本人とその妹のライ嬢が待っていた。

アナック・アグン氏は、自分の持っている土地の話と、絵の練習をしている息子の自慢話と、ニョマンの悪口の話をした。
妹のライ嬢は、とても口数の多い女性だ。機関銃の玉のような勢いで自分の身の上話をした。

「私は今、大学の語学の授業に通っている。日本語の辞書が欲しいのだがなかなか手に入らないので、まだ日本語は全くしゃべれない」

バリの人は教育熱心だと、いろいろな所で聞いた。確かにカティック・ランタンのような田舎の村で、裸足で生活し、日々道路端の水路でマンディ(沐浴)を楽しみ、神様に与えられた人生を陽気に全うしているとしか見えない彼女が、実は大学に通って日本語の勉強をしているのである。

「それから私は、授業料を払わねばならない。ところが働く時間がないので、家で竹篭を編んで、時々それを売って授業料に当てる。家はご覧のようにアバラ家で、夜雨が漏ることも・・」

と嘆いて見せて、さらに彼女は続ける。

「さて、あなたはこうやって約束を守って我が家に来てくれた。そこで、私の編んだ篭をプレゼントしたい。これは奥さんに、こっちは娘さんに。もちろんお金はいりません。本当は、授業料に当てるのだけれど・・・。普通はひとつ2万ルピア(これは相場の殆ど10倍)で売っているのだけれど・・・」

ここで私は、話を割って、単刀直入に確認しておかねばならないと思った。

「あなたは、辞書とお金とどちらが欲しいのか」

彼女は胸を張って、嬉しそうにこう答える。

「一番大事なのは辞書。その次はお金」

兄貴はこちらのやりとりには興味がないらしく、横を向いて、床に寝そべった犬の体を撫でている。
この家にも例によって動物が多い。見渡しただけで、犬が4匹、珍しく子猫が2匹、鶏が3羽。それぞれ仲よく共存している。
私は辞書の方を選んで、それでは次回にもってきてあげるから、と約束して席を立った。


3人で裏に止めた車の方へ向かうと、そこにはさらに1頭の豚と、おびただしい数の鶏が餌を漁っていた。車に乗り込むときに、これは篭のお礼だと言って少し心づけを手渡したら、彼女は大いに喜んだ後で、こう言った。

「しかし、あなたは辞書のことを忘れてはいけない」

それは自分の権利である、とでもいうように。それ以来、道で会うたびに辞書の督促を受けるはめとなった。彼女は立派だ。逞しいだけではなく、いつもきりっとした目をしている。私の権利だ、と。

2009年7月10日金曜日

015 隣村のニョマンの場合


隣村カティック・ランタンのアナック・アグン氏は、私がはじめて彼の家を訪れた時に、同じ村の住人であるニョマンについて忠告してくれた。

「ニョマンは悪い奴だ。田圃のまん中の一軒家に陣取っていて、通る観光客にニコニコ声をかけて引っ張り込む。無理に飲物を飲ませる。本人は絵のことはわからないのに、4千ルピアで仕入れた絵を1万ルピアで売る。買わない客からは飲物代をせびりとる。あいつには気をつけた方がよい」

実は私も何年か前に彼のアジトに引き込まれて、飲物代をせびられた経験者だ。その時に、書け書けというから、ノートに適当なことを書いたら、以後通りがかりの日本人をつかまえては、それを見せて自分の友達だと信用させるらしい。信用させて、絵や飲み物の押し売りをしているようだ。悪党かどうかは知らないが、困った人である。

初対面の日本人観光客に「あなたがニョマンのノートの人か」と言われることがある。それ以上は聞かされないが、何となく申し訳ない気分である。

そのニョマンの一軒家が火事にあって半焼した。それで、私に頼み込んできた。

「20万ルピア貸してほしい、家の修理が途中で止まっている、完成させたい」

あの家がなければ彼の被害にあう人もいなくなるわけだし、「貸せ」というのは「ちょうだい」というのと同義だろうと思うと、あまり気が進まなかったのだが、その場の情にほだされて、貸すことにした。
すると意外にも2日後、タイプ打ちの証文のようなものを持ってきた。なかなか律儀だ。それほど悪い男ではない。

その後、彼の家の完成度はほんの少しだけ向上した。証文に明記してあった返済期限に、半分の10万ルピアをマデに届けに来たらしい。残りは豚が売れてから、ということのようだった。もう何年も経つが、まだ豚は一向に売れていないらしい。

隣村に続く道は草ぼうぼう、凸凹だらけの農道であったが、ある日その舗装工事が行われた。見ていると、サンゴの真っ白い石をトラックが運んできて、どぼどぼ落としていく。それを、ツルハシを持った人々が待ち構えていて、叩きつぶしてならす。考えてみると、セメントを現場生産しているわけで、なかなか合理的なやりかただ。中に、棒切れを持ったニョマンが参加していた。

工事を見学しながら、その脇をバイクで走っていたら、突然ガス欠になった。炎天下で困っているのを彼が見つけてくれた。事情がわかると「待っててね」というなり、ズボンの裾をまくって、一目散に向こうへ駆け出した。サンゴの上を素足で。
しばらくして、ふうふう言いながら帰ってきた手には、ビニール袋が握られている。袋には、1リットルほどのガソリンが入っていた。ガソリンスタンドまで、5百メートル以上はあったと思う。あの時の走っていくニョマンの頼もしい後ろ姿は忘れられない。

残りの10万ルピアの件については、お互いに不問に附したままである。


2009年7月8日水曜日

014 トノの場合


API-APIが完成して、附属家に管理人のマデ一家が住むことになったが、しばらくすると、男の子が一人増えていた。マデに聞いてみた。

「あれは誰だ」  「トノである」
「どこから来た」  「ジャワから」

要約するとこういうことである。正確な名前はスハルトノで、16歳。ジャワ島の出身。両親が亡くなって、兄さんと二人で流浪するうち、バリ島に流れてきた。兄さんは運良くどこかの家にもぐりこんだが、トノは行く所がない。何でも手伝うので、API-APIに置いてもらえないか。

トノは、怠けがちなマデのアシスタントになって黙々と働いた。
ある夜のこと。蚊取り線香がほしいので、家の者を呼ぶとトノが起きてきた。

「ええと、モスキート・コイル」

通じないのでインドネシア語を一所懸命思い出して

「オーバットニャムッ、をちょうだい」

と言ったら、意外にも彼は

「アア、カトリセンコウネ」

と日本語で応えた。
驚いた私は、蚊取り線香のことも忘れてトノの語学力を取材した。

実は今、観光客に貰った教科書で独学で日本語を勉強している。英語はもう少しうまい。ジャワ語とインドネシア語は当然ネイティブ。マドラ島にいたことがあるので、マドラ語もできる。必要だから、バリ語も不便なくしゃべる。ドイツ語は片言で、日本語より下手。確かめる気にはならなかったが、大学でドイツ語を習ったわたしよりもよほど堪能なはずと思えた。少なくともわたしは、蚊取り線香のことをドイツ語でどういうのか、知らない。

「なぜ、今まで日本語をしゃべらなかったの?」
「だってナミさんが日本語で話しかけないから」

インドネシア共和国は2万近い数の島に300の部族が住み、350の言語が話されているという。ジャワ語やマドラ語のことは知らないが、インドネシア語とバリ語とはほとんど外国語同士の関係である。単語はおろか、文法まで異なる。他の言語も似たり寄ったりだろう。従って、トノは7ヶ国語を話す大変な国際人ということになる。

トノは寡黙である。夕暮れ時によく、テラスの端に立って長い間西の空を眺めている姿を目撃した。
フランスの人類学者レビ・ストロースによると「文明とは薄暗い室内でじっと静かに座っていられる能力」ということになるらしいが、そういう意味ではトノは大いなる文明人の風格を備えていた。ちょっと、バリ人とは違う、というとバリの男たちに恨まれそうだが、やはり、違う。

彼は、しばらくAPI-APIと他の家とジャワとの間を転々とした後、ウブドゥ村の外国人向けビューティサロンに就職して今に至っている。久しぶりに様子を見にいったら、立派な青年に成長して日本語も流暢になっていたが、やや神々しさが失われていた。残念ながら、少しバリ化したかもしれない。


013 ジャワ人アサの場合


村人のアサは、大工さんである。皆はバッパ・アサ(アサおじさん)を訛って「パッソー」と呼んでいる。日中はどこかの現場で働いている。

API-APIを着工する前に、せっかくだから工事をやらせてほしいとうちの建築主任に頼んだらしいが、これは断られたのだそうだ。この話しは相当後で聞いた。
家の完成後の補修仕事は、アサによく頼んでいる。処理が悪くて白蟻に食われた柱の付け替えや、これまた雨仕舞が悪くて腐りつつあった建具の取り替えなどの大工事も、管理人のマデが彼に相談して進めた。

アサはマッサージがすこぶる上手い。これにかけてもプロだ。夜は村の人に頼まれてあちこちでマッサージをしている。大工とマッサージで貯めたお金で、最近プラ(お寺)の前のワルン(村の中にあるよろずや兼飲食店)を買い取って、その営業も始めた。以前から村人の溜まり場になっていたワルンである。私もときどきここで昼食を食べる。

マッサージを頼むと、夜9時だろうが10時だろうが快くやってきて、足の先から頭のてっぺんまで入念に揉んでくれる。オイルを少し使って、およそ1時間半程度のコースである。揉んでいるまわりに、マデやマデの父親のバッパや義弟のニョマンやお手伝いのヌンガ(024話参照)が集まってきて、みんなで世間話をする。揉まれている私をカモにして、インドネシア語を中途半端に教えては、皆で笑い転げたりする。

傍らのバッパとアサとがこんなやり取りをしていた。

「○○はバリ語では何というか?」
「××はジャワ語では何というか?」
「マドラ語では?」
「ふむふむ、なるほど」

といった調子。この会話をインドネシア語でやっている。
よく聞くと、アサはここのネイティブではない。ジャワ島の東端の町の出身で12年前にバリ島のサヌールに来て、6年前にこの村に移り住んだ。だからジャワ語は自分の言葉である。

バリ語とジャワ語とは、それでも似ている所があるらしいが、インドネシア語はそれらから見ると全くの外国語である。マドラ語もそうらしい。同じ村人同士が、世間話をしながら、お互いのふるさとの言語を、またそれとは違う言語を使って教えあっている。大いに奇妙な風景だ。
こういう環境だから、例えばバリ娘のヌンガが日本語や英語の腕をメキメキ上げているのも、なるほどと思う。

アサが帰ってから、彼はいったい何歳かとバッパに聞くと、彼はジャワ人だからそういうことは尋ねたことがない、という冷たい返事が返ってきた。

ジャワ人はバリ人から、日常的にも一線が画されているようだ。
イスラム教徒だから、当然バンジャール(村落共同体)のメンバーではない。しかし、バンジャールには宗教以外の役割もあるので、毎月5千ルピアを負担している。そのかわりにバンジャールの使役などの義務は免除されているのだそうだ。

ただし、敢えてメンバーになろうと思えばなれる。現にマデの奥さんのお姉さんの旦那さんのスギオノは、やはりジャワ出身のイスラム教徒だが、バンジャールのメンバーだそうだ。なかなかややこしい。

こういう話しを、バッパは極めて物静かに語ってくれる。その語り口の中に、バンジャールの誇りがきらきらと光っている。そのきらめきは、アサのような部外者に対しては冷徹なバリアでもある。バリは、決して脳天気に朗らかなだけではないのだ。


012 キンタマーニのバイク娘の場合


バツブラン村からアユン川沿いにパヤンガン町の方向にまっすぐ上っていく尾根道がある。この道路はかつては、どこにでもある狭くて心許ない田舎道であった。ある日突然、まがりなりにも2車線に広がり、完璧に舗装されて、転落防止のガードポールまでついた立派な道に変身した。

これは、奇しくも沿線の高級リゾート、アマンダリホテルが開業した時期に重なった。そのため、アマンにスハルトの息がかかっていたので、政府の圧力で急遽道路改良が行われたのだ、という噂がまことしやかにささやかれた。真偽のほどは知らないが、地元の連中がすっかりそう信じていたというのは事実である。
API-APIからデンパサールの市街地方面に行くには、この道が一番便利なのでよく通る。

ある日、マデの運転でここを走っていたら、道の右肩の草むらにだれかがへたり込んでいる。その向こうのアスファルトの上に、あざやかなスリップ痕が短く曲線を描いて、脇の田圃に落ちている。すれちがいざまにちらっと伺ったら、若い女の子だった。

「おい、助けてやろう」「それがいい、それがいい」

車を止めて走り寄ってみると、顔を腕に埋めて、うずくまったまましくしく泣いていた。

「大丈夫か」

と手を取ったら、よろよろと立ち上がる。斜めになってはずれかかったヘルメットの下にのぞく顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていたが、かわいいながらもなかなかきりっとした顔立ちの少女であった。年の頃は17、8歳か。
黒いジャンパーからはみ出した手の甲を擦りむいて、そこに血が少しにじんでいる。何事かはまだよくわからないが、この程度で済んでまあよかったと道端を覗き込むと、高低差が2mはあろうかという田圃の畦に、単車が転落して腹を見せていた。
その横に、衝撃で倒されたガードポールが一本、コンクリートの基礎ごと落ちている。さらに落下点と思しき路上には、サンダルが散らばっていた。デンパサールで買い物をして、キンタマーニ近くの村まで帰る途中だという。

そこへ、かなり先の方に停車していたセダン車から一組の男女が降りてやってきた。男は糊のきいたワイシャツ姿。女は白いパンタロンに白いレースのシャツ。いずれも30代後半と見える。どうも、彼らの車が少し不注意をしたために、あおりを食った彼女の単車がスリップして横様に路上を滑り、田圃に落っこちたらしい。

さて、中年の典型的な自家用車階級対、汗くさいジャンパーに身を包んだ田舎の美少女の対決である。

そのうち集まってきた若い連中3、4人と一緒に単車を持ち上げるのを手伝いながら、ちらちらと様子を窺うと、圧倒的に勝っているのは美少女の方だ。
おろおろしているワイシャツと、それに比べればいくぶんシャンとして、丸い目を一所懸命開いて威嚇しながら反論しているパンタロンとを、交互にきっと睨みつけながら、胸を反らし、指を突きつけて彼らの非を大声でののしっている。

口角泡を飛ばすその堂々たる抗議ぶりに、周りを取り囲んでいた数名の野次馬たちも、これなら大丈夫と安心して、あるいはその剣幕に恐れをなして、単車救出を手伝いに来た。おかげで、あっという間に路上に戻った単車を見ると、泥よけとナンバープレートがひん曲がり、足をかけるステップも後ろにぐにゃっと折れていた。
でもこの程度なら村のバイク屋がうまく直してくれるだろう、補償交渉は彼女のペースで見事に進むだろう、などと思いながら再び彼女を横目で見ると、自分の愛車とそれを救い上げた騎士たちのことを一瞥だにせず、まだ2人とやりあっていた。

その凛々しくも神々しい姿を拝んで、泣きながら3日間単車で走り通したというあのフィットリーちゃん(011話参照)のことを思い出した。やっぱり、バリの女性はすごい!

あまりの迫力に、写真を撮るのを忘れました
そのため、写真と記事とは無関係です

2009年7月7日火曜日

011 フィットリーちゃんの場合


K子さんは、30代前半の日本人女性であった。
当時、クタのコス(アパート)に一人で住んで、衣料品やアクセサリーのバイヤーのような仕事をしていた。しっかり者で、これはと思った裁縫技術者(彼女は「お針子さん」と呼んでいた)をつかまえて、自分のブランドをつくったりもしていた。

いろいろ苦労もあったと思うが、そんなことをグチったのを聞いたことがない。賢くて冷静で、それでいて溌剌としている彼女は、とても魅力的な人であった。バリについてずいぶんたくさんのことを彼女から教わった。
といっても、本題はK子さんのことではない。彼女から後で聞いた、同じコス仲間の話しである。

フィットリーちゃんは20歳の見目麗しい女の子である。近くのブティックに勤めている。わたしも何度か会ったことがあるが、すらっとしていて、思わず襟を正してしまうような美人だった。

この子が、3日間行方不明になった。
結婚を約束した彼氏にふられたので、傷心のあまりバイクに飛び乗って、そのまま走り回っていたのだそうだ。自分でもどこに行ったのかわからない、とにかく泣きながらがむしゃらに運転していたら3日過ぎていたのだという。

その後も続けてブティックを無断欠勤してコスにこもっていたら、7日目になって店の同僚が偵察に来た。正直にわけを話すと、報告を受けたボスがいうには

「そういうことであれば休んでもしようがない。直ったらまたおいで」

ということで、1週間の無断欠勤は不問に付された。

行方不明の経過もすごいが、不問に付すというのもなかなか太っ腹だ。
彼女にとって初恋だったという彼氏は、医者で2、3歳年上の幼なじみだという。すっかり結婚するつもりだったのに、親同士が仲が悪く、それが原因で破談になったらしい。
フィットリーちゃんのことは、これでおしまい。

ロンボク出身のユニちゃん27歳の場合も激しい。彼と喧嘩して頭にきて、突然意識を失ってしまった。意識をなくしたまま「別の人になって」、刃物を振り回して大暴れしたらしい。自分では全く覚えていないのだが、彼にひっぱたかれて初めて正気に戻った。

いずれの話しも、どうも男の影が薄い。なんだか中途半端に正気で、おろおろしているような様子を想像してしまう。

これに対して、バリの女性はすさまじい。感情の起伏が、人間の域を離れて霊界まで達している。このことを、ブティックのボスもよく知っているのだ。
これだけ激しいと、その後カラリと晴れるのが嬉しい。まるでスコールのようだ。
ティダ・アパアパ(010話参照)を絵に描いたような、よく言えば優しくて包容力にあふれたバリの男たちに比べて、バリ娘はだいたいこういう感じであるから、みんな気をつけたほうがよい・・・と思う。

フィットリーちゃんは、その後すぐに新しい彼氏が見つかって、今は幸せ一杯の日を送っているらしい。スコールの去った後は、空も地上もきれいに掃除されて本当にすがすがしい。

写真は、記事とはまったく関係がありません

2009年7月6日月曜日

010 P氏の場合


バリ人の性格描写として「ティダ・アパアパ」ほど正鵠を射る言葉はない。日本語で言うと「たいしたことはない」「大丈夫、大丈夫」というような意味であるが、これに、「ケ・セラ・セラ」というような味わいも少し混じる。

「ごめんなさい」「ティダ・アパアパ」
「これはやばいんじゃないの?」「ティダ・アパアパ」

といったような使い方である。
この「ティダ・アパアパ」の心根は、バリ島の楽園性を維持するうえで重要な要素でもあるのだが、思わぬ文化摩擦の種ともなる。

P氏は、ウブドゥの近くの聖地タンパクシリン出身の好青年である。これから書くことは、旧聞とはいえ、いささか彼の名誉を毀損する話しなので、P氏とする。

タンパクシリンを出てウブドゥの町にやってきたP氏は、はじめロスメン(簡易ホテル)で働いていた。この頃、彼自身の所有物はボールペン1本とシャツ1枚だけだったという。そこでしっかり働いて認められてから、私のよく使うホテルのフロントに移った。
超高級とはいかないが、外国人専用のそれなりに高級なホテルである。私はその時に知り合ったのだが、日本語が達者な彼はもうすでにエリートの顔つきで、いつもノリの効いたシャツを着て、こざっぱりした身なりをしていた。目を輝かせながら、自分はこの日本語の能力を活かして、いずれは商社のような仕事をしたいとしきりに言っていた。

そのP氏が数年前、ついに独立して日本人向けの旅行会社をはじめた。スポンサーがついたのである。結婚を約束した日本人女性B嬢がお金を出してあげたらしい。P氏はそれ以後、B嬢から何だかんだとお金を引き出して、事務所をいくつも構え、人を何人も雇い入れて事業を拡張し、ビジネスに励んだ。このまま行けば、立志伝中の人物となるはずであった。

ところが、これがそううまくはいかなかった。事情通にいわせると、お客からの売上金が適切な支払先に行かないで、周囲のお金に困っている友人や従業員のところに“じゃぶじゃぶ”流れてしまうのだそうだ。従って、仕事が増えれば増えるほど、ホテルやレストランやバス会社への未払金が溜ってしまう。それでまたB嬢からお金を引き出す。
しばらくしてこの仕組みに気が付いたB嬢は、やっと目が覚めて婚約を破棄し、弁護士を立ててP氏を訴える挙に出た。P氏は困って逃げ回っている。使いこんだお金は、日本円で300万円!にも達していたという。

以上は、周囲の観察者の解説である。P氏には、経営を全うする冷徹さが、いささか欠けていたわけである。

P氏がお金持ちになって、バランス感覚を失ったことはよくわかる。しかし、彼の性格から考えると、だます気などさらさらなかったに違いない。おそらく「お金は持っている人から持っていない人に流れるものだ」という本能的な感覚に忠実すぎたのだろう。その感覚は、多かれ少なかれ、バリの人たちみんなが一様に持っている、ように見える。

P氏は、自分が持っている人になったことを実感し、無意識のうちにこの本能に従ってしまい、結局、誠実なビジネスマンになることができなかった。彼がこの罠にはまって、これからどう身を処していくのかはわからない。
大金とはいっても、日本ではそれほど巨額ともいえない金額のお金が、いきなり一人の好青年を金持ちにし、その金銭感覚を麻痺させて、有為な前途を潰してしまったかもしれないと考えると、複雑な気持ちになった。

ウブドゥの噂雀がP氏とB嬢のことを盛んにさえずりあっていた頃、ある晩P氏本人がひょっこりAPI-APIに姿を見せた。
思わず私は何も知らないふりをして、こう挨拶した。

「よう、どしたい。仕事は順調かい?」

「仕事は順調なんですが、今、彼女とトラブルで大変。でも、人生浮いたり沈んだりがあるから楽しいね。今は沈んでいるけど、もうすぐ浮かぶと思います。ティダ・アパアパ」

ちっとも懲りていないのである。まるで、自然現象で降りかかってきたスコールが、早く去ってくれるのをじっと待っているような口振りだった。まじめに心配したこっちがあほらしい。


2009年7月5日日曜日

009 ワヤンの場合


ワヤンは、近くのホテルのオーナーの息子である。ワヤンというから跡取りかと思ったら、第2婦人の息子で、そのせいかどうか、跡取りということでもないらしい。虫を飼ったり、闘鶏に夢中になったり、いつ会っても真剣に遊んでいたが、笑顔を絶やさない、いい男である。

彼はプレイボーイだ。当時、弱冠28歳で12歳の子供がいた。その母親とは「愛が壊れた」ので別れて、今は独身ということだった。日本人の彼女が25人いると自慢するので、本人がいない所で別の人に尋ねたら、やはりワヤンは恋人を25人日本にもっているという。本人が言うのは主催者発表というわけでもないようだ。

ある時久しぶりに会ったら、6カ月後に結婚するのだと嬉しそうにいう。相手は、A子さんという日本人。近くのコテージに2カ月と7日滞在し、つい10日程前に帰国したらしい。
彼と彼女はつまり10週間前にここで初めて出会ったのだが、彼の言によると、それ以来毎晩ふたりは愛し合ったのだそうだ。ワヤンはさらに調子に乗って、より詳細な供述を行ったのだが、それを記録するのはいささかはばかられる。

「大変疲れた」

といっているが、本当だろう。彼は、結婚後バリ人となるはずの彼女が、日本で仕事を続けるのに、就労ビザが必要だろうか、結婚式はお金がかかるのでそんなに盛大にはできないとか、細々と悩んでいるが、その割には彼女の年齢も教えてもらっていないし、フルネームも忘れてしまっていた。

この手の話は、よく聞く話だ。むしろ、日本人の恋人がいないというバリ青年に、これまでほとんど会ったことがない。真面目なマデでさえ、白状させると10人以上いるという。そのうち2人とは、すっかり結婚するつもりだったとのこと。
こういう話題については、こちらが問い詰めなくても、彼らは好んで微細に立ち入った報告をしてくれる。悪びれる様子も、見栄を張る風もない。
壊れた物語もたくさん聞かされたが、いつも感銘を受けるのは、彼らがそれを誰のせいにもせず「何かがうまくいかなくて」と静かに受容し、寂しいけれども屈託がないことだ。本当は、彼女たちが日本の日常に帰って、バリでの約束をすっかり忘れてしまったせいに違いないのだが。

ワヤンの場合は、その後どうなったか。
それが驚いたことに、本当に結婚したのである。
A子さんにとっては、ずいぶん大きな決断だったに違いない。そのごほうびのように、仲むつまじくて幸せそうな夫婦だった。
ホテルの離れに住んで、すぐに子供も生まれた。

ワヤンは、今度はその赤ちゃんといっしょに楽しそうに虫の飼育をやっていたのだが、残念ながら、何かがうまくいかなかったようで、何年後かに聞くと、彼女は子供を連れて日本に帰ってしまっていた。

その後、ワヤンはホテルを出て、別のところに高床式の小さな家を建て、今度は若いバリ人の女性といっしょに暮らしている。訪ねていったら、闘鶏用の鶏を抱きながら、あいかわらず屈託のない笑顔で迎えてくれた。
波瀾万丈のはずだが、ケロッとしている。A子さんも、ぜひアッケラカンとしていてほしいと思う。

(写真は本文とは関係ない、と思ってください)


2009年7月3日金曜日

008 ひったくり


昨日、泥棒の話しを書いたので、ついでにひったくり事件に遭遇した話しを書く。

朝起きると、テラスでドイツ人の若いカップルがお茶を飲んでいた。
API-APIはウブドゥ周辺を巡るルーラル・トレッキングの定番コースの中で、ちょうど都合のよい場所に位置するので、休憩に立ち寄る人がときどきいる。
ゆっくり相手をしたいところだが、警察に滞在届けを出しに行かなければならないので、二言三言挨拶を交わして、そのまま街に出かけた。おとなしそうなカップルだから、むしろ邪魔が失せてよかったかもしれない。

警察署では、大勢の警察官諸君がそれぞれの部屋に陣取って執務していた。一番手前の入口にある机を取り囲んで、いつものように数人の警察官がたむろしている。ここは、よろず受付のようなところで、泥棒がはいったとか、捕まえたとか、喧嘩したとか、物をなくしたとか、様々な相談を受け付けて調書を作成する。場合によると机の前に、被害者らしき人や被疑者らしき人もしくはその両方が座らされていて、侃々諤々やっていることがある。そんな時は、その間を「ちょっとごめんよ」とかき分けて入れてもらうことになる。
滞在届けの担当は、一番奥だ。そこに行くまでに、すべて(といっても途中3つ)の部屋の前を通るので、全体をチェックできる。それぞれの部屋にはたいてい1人か二人の係官が退屈そうに座っているだけで、何もしている様子がない。ほとんどの用は入口の所ですんでしまうのだろう。

滞在届けは、ものの5分程度で終わる。

帰路、チャンプアンの橋を渡ったところで、なぜか人が大勢路上に集まっていて、ただならぬ雰囲気である。道ばたに並んで横の排水路の中を覗き込んでいる一団がいる。反対側の路上にも人だかりができていて、こちらはいくつかグループをつくって興奮しながら何事か相談している。車を降りて排水路の中を見ると、一台のバイクが見事にすっぽり落っこちて、ひっくり返って腹を見せていた。
なにがあったのか、単なる事故でもなさそうだ。人だかりの中に、奇遇にも朝のドイツ人カップルがいた。
「どうしたの?」
「強盗に会った」
なんと、彼らこそが渦中の人であった。聞き出した顛末は次のとおりである。

API-APIを出て、ふたりが歩いていると、3台のバイクがやってきて、うちの1台が彼女のリュックをもぎとって逃げようとした。彼氏が走って追いかけて、それをもぎとり返したところ、かわいそうにもそのバイクはひっくり返って溝に落ちてしまった。犯人はあわてふためいて、他のバイクに拾ってもらい、2台と3人は一目散に逃げてしまった。一瞬のことで、顔はよく覚えていない。
強盗というのはオーバーだが、泥棒としては乱暴だ。

取り返したという彼女のリュックには、乾いた泥があちこちについていた。ちょっと肥り気味で色白の彼氏は、玉のような汗をしたたらせつつ、一大ハプニングに遭遇したびっくり仰天と、彼女の前で獅子奮迅の大活躍ができた嬉しさとで、大いに興奮していた。

やがて野次馬たちに事のあらましがおおかた伝わって、熱気が収まりかけた頃、若いポリスがひとりでやってきて「なんだ、どうした」ということになった。

彼は周りの連中に指示して、やっとこさバイクを引き上げると、それを押して道の脇に止め、検分をしはじめた。

これから、この2人のドイツ人とバイクは、さっきのウブドゥ署の入口の机のところに行くのだろう。犯人も、ナンバー付きのバイクを置いていったのでは、占い師のご託宣を受けるまでもなく,すぐに足がついてしまうに違いない。翌日のあの机の周りの光景が目に浮かんだ。

「バリにはこそ泥や嘘つきはいるけど、強盗はいません」というのが、バリの観光ガイドの常套句であるが、最近はちょっとあやしい。経済情勢が悪くなって、外国人の数が減ると、こういう物騒な事件も起こるようになる。


2009年7月2日木曜日

007 泥棒


ある夜半のこと、ウブドゥ周辺の真っ暗な路上に、ここに3人、ここに5人と、凛々しい男どもがたむろしたり、隊列を組んで歩いたりしていた。いずれも、棍棒のようなものや、長い竿を持っている。竿の先には、時々キラリと光るものがある。つまり、これは槍である。どうもただごとではない、おどろおどろしさが闇の中に充満している。お葬式のシーズンなので、そのせいかとも思ったが、そうではなかった。

「どうしたの?」
「ジャワから盗賊団がやってきていて、夜な夜なあちこちの寺で盗みを働いている。これは、その警備である。私たちは今夜の当番」

いわゆる、自警団である。これでは、泥棒も命懸けだ。

後で聞いたところによると、泥棒なんかは警察が来る前に殺してしまうんだそうだ。なぜなら、警察が来た後では殺せないから。つまり、お巡りさんは悪者を捕まえに来るのではなくて、捕まった泥棒に法の保護を与えに来るわけだ。だから、犯罪者は捕まりそうになると必死で警察に駆け込むという。少し眉唾な部分もあるが、ともかくバリで悪いことをしてはいけない。
これも後で聞いたところでは、ジャワから来た盗賊団は、ヒンドゥの寺にもぐり込んで、宝物を奪うだけでなく、その後にけしからぬ落書きを残したり、現地の人の言葉によると「頭にウンチをする」ような行いを繰り返していて、それが人々の怒りに油を注いでいるらしい。窃盗だけならいざしらず、わざわざ宗教的挑発までからませているということだから、これでは槍で突かれてもしかたがない、のだそうだ。

それからしばらくして、家に泥棒が押し入った。寝静まった頃を見計らって、ゲストルームのガラスのルーバーを一枚一枚丁寧に取り外して侵入し、眠っていた知人夫妻の枕元に置いてあった貴重品袋を持ち去ったのである。別の部屋に寝ていた私は、どういう巡り合わせか、寝付けずに起き出して、逃げようとする賊と鉢合わせをしてしまった。心臓が飛び出る思いだったが、向こうはもっとだったろう。真っ黒い人影が、石つぶてを2、3個私に投げつけたかと思うと、塀を飛び越えて転げるように裏手の森の中に消えた。

けたたましい私の呼び声に反応して、家の男たちが鉄パイプを振りかざして走り出してきた。その恰好で一応辺りを走り回ってはいたが、当然ながらもう曲者の影も形もない。サンダルが一足残されていた。
そのうち、被害者夫妻が「何かあったのか」と起き出してきて、自分たちの不運に気付き、ますます騒ぎが大きくなった。

バリの朝は、漆黒の夜からいきなり、雲雀が駈け上るように明ける。明るくなってから、お巡りさんが何人もやってきて現場検証と事情聴取がはじまった。やがて、途中でどこかへ用足しに出掛けたそのうちのひとりが帰ってきて、深刻そうな顔で私にこう告げた。

「犯人はジャワ人。ふたりである。ふたりとも北東の方角にいる」

知っているのなら早く捕まえて欲しいものだ。しかし、なぜわかったのだろう。彼の答えは

「今、サンダルを持っていってお坊さんに占ってもらったのだから、間違いない」

悪いことは何でもジャワ人のせいにするのは、バリ人の悪い癖である。無防備は罪作りだと反省して、後日白い番犬を一匹飼い、壁に赤外線センサーを取り付けた。
当の夫妻には申し訳ないが、わたし自身はちょっと打ち身をつくっただけで大した怪我にもならず、むしろ被害届けの出しかたとか、パスポートや航空券の再発行の手続きとか、日ごろできない勉強をしたと思うことにした。

それ以来、犯人のことが妙に気になる。日の出前の暗闇の中を、やつらは走って逃げた。バリ人だかジャワ人だか知らないが、大蛇も潜む真っ暗な熱帯の森の中を、裸足で駆け抜けていく若い男。しなやかな、鹿のようなその姿を想像して、そのイメージが頭から離れない。

2009年7月1日水曜日

006 ジェゴッグ


踊りの伴奏は、いわゆるガムラン楽団。ガムラン音楽は、血沸き肉踊る音楽で、踊りがなくても全然飽きない。ガムランには青銅のガムランと竹のガムランとがある。普通は青銅のガムランで、これは青銅製の鉄琴(というのも変だが)、銅鑼、トロンポンという大小のおっぱいをずらっと並べたような楽器、それに太鼓と笛で構成される。竹のガムランは“ジェゴッグ”と呼ばれ、大小の竹製の木琴(これも変だが)のオーケストラで、青銅に比べると聴く機会は少ないものの、迫力はこっちのほうがはるかに大きい。

ジェゴッグは、最近はウブドゥに楽団ができていて驚いたが、もとはバリ西部のヌガラにしか楽団がいなかった。「ヌガラのスワル・アグン楽団はいいよ」と聞いて、ぜひ生で聴かせてもらいたいと思い、車で訪問したことがある。

事務所に行って「明日、ウブドゥのAPI-APIに来てもらえないか?」と聞いたら「いいよ」とふたつ返事。ところが、帰りがけにスタッフが追いかけてきて「ごめん、うっかりしてたんだけど、明日はオーストラリア公演に出発する日なのでペケ。でも安心。別の楽団が行きます」。
よろしくお願いします、といって翌日夕食時に待っていたら、トラックに20人ほどの団員が乗ってやって来て食事の間中演奏と踊りを楽しませてくれた。これがわたしのジェゴッグ初体験である。ジェゴッグも新鮮でなかなかよかったが、外国公演と、見ず知らずの個人のお座敷とが同列なのにも驚いた。

その後、ウブドゥのはずれにできたカフェのオープニングイベントに「スワル・アグンが来る」という話しを聞きつけたので、招待状はなかったが行ってみた。

カフェといっても、まわりはぐるっと一面の田んぼという場所である。小雨が降っていた。カフェの中は、客と団員が入り乱れて開演までの暇つぶしの最中。たまたま座った隣が団長さん。「この前は残念でした」「ああ、あんときゃ、ごめんね」
というような話しをしていたら「さあ、そろそろ始めるか」という段になった。号令一下団員たちが駆けて行った先には、すでに楽器がしつらえてあって、いきなり演奏が始まった。ずっと向こうの田んぼの中である。音につられて、お客さんたちも走っていく羽目になった。
刈り取りが終わった田んぼを何枚か進んでいく沿道に、重油のランプが点々と滑走路の誘導灯のように置いてあって、われわれを導いてくれる。その先で、客もいないのに、かれこれ80名ほどの楽団が二手にわかれて演奏の真っ最中である。しかも、雨足はさっきよりも強くなっている。

団員よりもはるかに数の少ない招待客は、暗闇のなかで最初は周りをうろうろしながら鑑賞していたが、やがて目が慣れてくる頃には、演奏の迫力に誰もがトランス状態になり、楽団に混じって木琴を叩くもの、低音楽器の下に潜り込んで空ろな目で雨宿りしているもの、など、もうなにもかもが渾然一体となって、はちゃめちゃな空気の中を音楽が渦巻いた。どのくらいの時間か忘れたが、とにかく最初から最後まで休みなく、二手の楽団がある時は一体で、ある時は掛け合うように、目くるめくような音を爆発させ続けたのである。

楽器も人もびしょ濡れで、濡れた体から出る湯気が、あたり一面にもうもうと立ち上がっていたことを、よく覚えている。
これが、わたしのジェゴッグの2度目の体験。かなりヘビィな経験であった。

バリに行ったら、ぜひジェゴッグ鑑賞をお奨めする。踊りもよいが、ジェゴッグはもっと凄い。とくに“スワル・アグン”と聞いたらお見逃しのないように。