2009年8月6日木曜日

025 バリの運転事情


バリの人たちの車の運転には、慣れることができない。

彼らは、田舎の1車線の道を80キロで飛ばす。見通しの良いフリーウェイではない。両側には集落の家並みがあって、道ばたに座っている人がいるし、路上を鶏や犬たちがわがもの顔にうろうろしているのである。

前を走っているトラックの荷台には、20人もの人が乗っていることもあるし、雨の日などには頭からポンチョをかぶった3人乗りバイクが脇を駆け抜けたりする。

もっと悪口をいえば、彼らにはスピードメーターが必需品であるという感覚がない。
これまで乗ったタクシーや、借りたレンタカーの中で、信頼のおけるメーターが付いていたためしは、ほとんどない。

うちで乗っていたシビックのメーターも190キロを指したきり、ピクリとも動かなかった。この車を売りに出そうとして、新聞広告を出したのだが、その広告の文面の最後には「パーフェクト コンディション」と書いてあった。スピードメーターはいわば飾りのうちであって、コンディションの中に入らないのである。

さらにいうと、かつてヌサドゥアの超高級リゾートホテルを介して借りたレンタカーの「カタナ」(スズキのジムニーの現地バージョン)は、運転席のドアが開かなかった。持ってきたレンタカー屋の青年に

「ドアが開かない」

と文句をいったら、驚いてすぐに調べてくれたが、助手席のドアを開けて

「大丈夫じゃない?開くじゃない」

と、ニコニコしながらのたもうた。もう、びっくりさせないでよ、悪いんだから、という調子である。運転席が開かなくても、助手席から入れるんだから、なあんにも問題はありはしないのだ。

おかげで、何日か借りている間、助手席からにじり入ったり、運転席の窓から逆上がりをしながら潜り込んだり、いろいろな工夫を余儀なくされたが、考えてみればそのことで「走る」という車の機能に、何ら障害があったわけではない。

今でも問いつめられれば、スピードメーターや運転席のドアは必要ではないかと私は思うのだが、それがないと車が走らないかといわれると、心が揺らいでしまう。
彼らには彼らの理屈があって、そういうものはアクセサリーにすぎないのである。
その理屈を貫徹して進んでいけば、とてつもなく新鮮で刺激的な環境システムが実現するのではないか、と想像するのだが、しかし、それは無理というものだろう。

例えば

「うちの車はすべて運転席のドアが開きます。これがパーフェクトというものです」

というレンタカー屋さんが現れれば、件の青年は心を入れ替えざるをえなくなるだろうし、ドライバーも

「そうでなくちゃ」

という気分に簡単になってしまうだろうから。
地球時代の文明は、平準化の方向にしか進まなくなっている。


さて、スピードの話しに戻る。
ときどき、恐さのあまり、顔をひきつらせてたしなめることがある。

「おい、マデ、急がなくていいからね!」
「・・・・・・」
「スピードを落としなっさい!!」
「・・・・・・」

マデは納得しないまま、それでも少しスピードを緩める。すると、後ろの車がいらいらしてクラクションを鳴らし、パッシングしたあげく、さっと追い越していく。マデは我に返って、私の要請を忘れ、条件反射のようにスピードを上げて抜き返す。

バリで私は1分を争うような用のあったためしがない。いつも時間には充分余裕がある。バリの多くの人たちも同様のはずだ。でなければ、約束に3時間も遅れて謝りもしないし誰も怒らない、というような社会秩序を維持できるわけがない。

それなのに、自動車はなぜ、こうもあくせく走るのか。

悩んだあげく、私はこう考えることにした。彼らの言い分は、こういうことではないか。つまり、

「車は早く着くために使うのだから、とにかく速く走らせることが大切に決まっている。そうでないのなら、歩けばよい。速く走らせるには、他の車と利害がぶつかるのは当然である。その時は、とにかく勝つか負けるかなのだから、譲るなどというのは愚の骨頂だ。それがいやなら、最初から歩けばよい」

我ながら実に明解な理屈だ。そういうわけで、あらゆる道路上では強い者が勝つというシンプルなルールにもとづいたカーチェイスが、日夜繰り広げられている。

「それがいやなら・・・・」

という目で見られるのがうっとうしくて、最近はもう半ば諦めて文句を言わないようにしているが、慣れたかといわれると、それは別問題である。


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