2009年10月27日火曜日

035 お葬式(1)


マデの実家の隣の青年が病気で亡くなった。21歳ということだった。

3、400人の村人が集まって、お葬式を行う。厳密にいうと、仮埋葬のためのお別れの儀式で、そのうちに再度掘り出して火葬を行う。そのうちに、というのは、何人分かまとまったとか、火葬のためのお金ができたとか。

集まった人たちは、いずれも上半身黒っぽい恰好をしている。下はあまり派手ではないものの、様々な色のサルーンを巻いて。男は黒っぽいTシャツが多い。半分位は、M氏の第3婦人が亡くなった時に彼が支給したTシャツである。山車をかついでいる人々の絵と、M氏の名前がプリントされている。他は、様々な絵柄のシャツ。立派な鷲の絵や極彩色のスポーツカーがいる。

若者の遺体は、家の庭にこしらえた竹製の台の上に安置されている。炎天下だ。空は抜けるように高く、青い。大勢の人たちが遺体のまわりに群がって、それぞれが手で触りながらお別れをしている。その側で横を向いてタバコをふかしているのや、あくびをしているのがいる。背伸びをしてのぞくと、そのうちの一人の青年と目が合った。

「よお、来てるの?!」

と笑って、遺体に触っていない方の手をこちらに振った。

泣いている人はいない。その他大勢は、まわりに適当にたむろして世間話をしている。知り合いのリンタさんの弟というのが私をみつけてやってきて、あいさつがてら、彼が15年前に2か月間滞在したことのある神戸と、我が広島との地理的位置関係に関する考察を中心に、ひとしきり歓談していった。

午後1時過ぎという灼熱の日差しの中で、もくもくと儀式は続けられていた。しきっているのは、パヤンガンの近くの村のイダ・バグースと村のマンクさんである。このマンクさんはいつものガルンガンで見る2人のマンクさんとは違う人だ。聞いてみると、お葬式のときだけの特別のマンクさんとのこと。

お祓いやお清めの様々な段取りを経て、遺体は純白のシーツで包まれ、竹で組んだ担架に載せられた。それを4人がかついで進む後を、一隊のガムランが賑やかに追い、参会者全員がぞろぞろと埋葬墓地までついていく。
すでに掘ってあった穴に、遺体を納める。太い竹の節を上手に抜いて、顔の所に立てかける。死者が息苦しくないようにとの心遣いだろう。
みんなで少しずつ土をかけ、その後を2人の男がクワとスコップで手際よく埋めて仕上げる。その上に、付近の雑草をマット状に剥いでおいたものを、近親者がてんでに持って積み上げる。終わりに銘板を立てる。これで一応終わり。

清めの水を手と頭にいただいて、一度家に戻る。帰ったら、まず台所にちょっと寄りなさいといわれた。台所にはブラフマンがいるので、浄められるのだという。

ちょっとしてから、再び墓地に帰ってくると、すでに人は誰もいなかった。
静かな草むらの中に、新しくマウンドアップしたところで、どこかの犬がお供え物をむしゃむしゃ食べている。墓碑に近づいて読む。凝灰岩の一片に釘で

「20 10 xx クトゥ・スプリが居ます」

と刻印してあった。
タバコを吸っていた奴、あくびをしていた奴、にこやかに手を振った青年、リンタさんの弟、仲間を失った彼らの胸中は、われわれエトランゼには測ることができない。


2009年10月20日火曜日

034 ナンディスワラの寄付のしかた(4)

銘板や台座づくりが順調に進んでいるのを確認して、一度日本に帰り、数ヶ月してまた戻ってみると、すでに堂々たるナンディスワラが階段を挟んで屹立し、44名の名前を記した銘板が台座に嵌め込まれていた。
階段の両脇には、立派なナーガ(蛇の神様)が、これもほぼ完成して波打っている。どちらかというと、ナーガのほうが大きくて目立つので、ナンディスワラの存在感を食ってしまっている。
ナーガは誰が寄付したのだろう、と変な予感がして、マデに聞いてみると、これは余ったお金でつくった、ということだった。つまり、将来バライ・クルクルでもつくる時に使おうと思っていたわたしたちのお金が、知らない間にナーガに化けてしまった、というわけだ。
こういうのは、よくあることで、ここで怒ったりすると人間性を疑われることになる。これで村のみんなが嬉しいのであれば、そりゃあよかった、と思わなくてはいけない。
この立派なナンディスワラとナーガは、やがて数ヶ月と経たないうちに、苔むして堂々たる風格を放つ存在となった。アピアピにお客さんが来るたびに、お寺に連れていって台座の銘板を見せ、「ね、ここにわたしの名前があるでしょ?」などと悦に入っていたものだ。
これで、ナンディスワラの顛末は一応落着するのであるが、実はさらに後日談がある。
お寺の境内では、小屋を改築したり、未完の彫刻を完成させたりして、全体をリニューアルさせる事業が進んでいたのだが、それらが一段落した機会に、大々的にお祭りが挙行された。ちょうど運悪く、わたしはその時日本にいて、あとで様子を聞かされた。
そこに招待されたギヤニャール県だかバリ州だかの偉い人が、われわれのナンディスワラの台座に眼を止めて、「このように名前を書くのは、いかがなものか」と文句を言ったのだそうだ。ペネスタナン村の人たちは従順で信心深い農民である。それで、すぐに銘板をはずして、かわりに花柄をあしらった黒い石板を嵌め込んだ。
「隣のお寺の入り口には、スハルトの娘の名前が記してあるではないか」とは言わなかったらしい。
マデのお父さんも、僧侶のマンク氏も名前を残すように薦めてくれたのに、あれは何だったのだろう。それに、スカワティの棟方志功の仕事も、無駄にしてしまった。
しかし、毅然たる宗教秩序の前に、文句を言うわけにはいかない。まあ、これもよくあることだ。それで村の人が安心するのなら、そりゃあよかった、と思わなくてはいけない。
苔むしたナンディスワラとナーガは、ちゃんと残ったのだから。

2009年9月2日水曜日

033 ナンディスワラの寄付のしかた(3)


現場のプラ(お寺)の大階段の下では、ナンディスワラの台座が、少しずつ少しずつできていく。
パラスと呼ばれる石のブロックとレンガを積み上げる。パラスは、近くのバツブラン村の渓谷でとれる石で、火山灰が粘土になり固まって凝灰岩になる寸前といった感じの柔らかい石だ。

少しずつ少しずつ積み上げて、高さ90cmに到達するのに5日間かかった。

その悠々たる仕事ぶりを、ジュプンの木陰に座って日がな一日見物しているおじいさんがいる。白髪混じりのいがぐり頭で、黒縁のメガネをかけ、白いTシャツによくあるサルーンを巻いている。
Tシャツには“CAT FEEDER”と字がプリントされ、かわいい2匹の猫の絵が描いてあった。ペネスタナンの単なる暇なおじいさんなのだが、ニコリともせず眺めている哲学者のような風貌を見ると、作業を監視している人間国宝の親方か、この寺の信望深い檀家総代かと思ってしまう。

ちょうど、寺の境内では何の縁日なのか闘鶏が行われていて、地元のギャンブル好きの連中が2、30人集まっていた。

やがて、寺のそばのバライ・バンジャール(集会所)の前にかわいい少女がポリバケツをふたつ抱えて来た。その後に、母親がついてきた。
母親は、皿のたくさんはいった大きな金ダライを頭に載せている。

闘鶏仲間を目当てに、突然ミニ・ワルン(小さな屋台)の開業である。この店のメインはラクラク。小さな丸くて堅いパンを2つ蛤のように合わせて、中にグラバリという黒砂糖と椰子の実の白い繊維をはさんで食べる。これは実に美味なるおやつである。

ニコリともしない哲学者の横の木陰に並んで腰掛けて、ラクラクをかじりながら、少しずつ少しずつパラスとレンガが積み上がっていくのをぼんやりと眺めていた。

職人は2人。老人と若者。もっぱら若い方が専門に積んでいく。老人の方は、脇でパラスやレンガを切ったり削ったりしながら、頃合を見計らってモルタルをこねて補充したりしている。若い棟梁に運良く仕事をもらった、近所のおじいさんといった感じだ。


使っている道具は結構多い。まずレンガ用の鏝が2本である。それにモルタルをこねる鍬が1本。水をまくための紙コップが2個。バケツも2個。
パラスやレンガを整型するのに、両端に刃のついたタガネが大小4本とカンナが3種類。金鋸の刃が数本。これはパラスを切ったり、モルタルを削ったり、長さを測ったりするのに用いる。
さらに、水平をとるための透明のビニールパイプ。スチールの小型直角定規2本、3mの日本製メジャー、金槌。以上である。

石とレンガの積み方は例によって擦り合わせ法である。水を垂らしてすり合わせ、セメントの粉をパラパラっとまいて再びすり合わせて固定する。その過程でセメントはパラスの粉と混じり合って、モルタルというよりもお汁のようになってしまうので、さて強度という点で寄与しているかどうかについては、はなはだ疑わしい。水でくっつけているようなものだ。

泥水の入った紙コップを上から手で覆うようにつかんで、人差し指と中指の間からちょろちょろと水を注ぐその華麗な手つきは、見事に様になっていて、さすがプロの首尾である。まるで年季のはいったバーテンダーのようだ。


033 ナンディスワラの寄付のしかた(3)


現場のプラ(お寺)の大階段の下では、ナンディスワラの台座が、少しずつ少しずつできていく。
パラスと呼ばれる石のブロックとレンガを積み上げる。パラスは、近くのバツブラン村の渓谷でとれる石で、火山灰が粘土になり固まって凝灰岩になる寸前といった感じの柔らかい石だ。

少しずつ少しずつ積み上げて、高さ90cmに到達するのに5日間かかった。

その悠々たる仕事ぶりを、ジュプンの木陰に座って日がな一日見物しているおじいさんがいる。白髪混じりのいがぐり頭で、黒縁のメガネをかけ、白いTシャツによくあるサルーンを巻いている。
Tシャツには“CAT FEEDER”と字がプリントされ、かわいい2匹の猫の絵が描いてあった。ペネスタナンの単なる暇なおじいさんなのだが、ニコリともせず眺めている哲学者のような風貌を見ると、作業を監視している人間国宝の親方か、この寺の信望深い檀家総代かと思ってしまう。

ちょうど、寺の境内では何の縁日なのか闘鶏が行われていて、地元のギャンブル好きの連中が2、30人集まっていた。

寺のそばのバライ・バンジャール(集会所)の前にかわいい少女がポリバケツをふたつ抱えて来た。その後に母親がついてきた。
皿のたくさんはいった大きな金ダライを頭に載せている。
闘鶏仲間を目当てに、突然ミニ・ワルン(小さな屋台)の開業である。この店のメインはラクラク。小さな丸くて堅いパンを2つ蛤のように合わせて、中にグラバリという黒砂糖と椰子の実の白い繊維をはさんで食べる。これは実に美味なるおやつである。

ニコリともしない哲学者の横の木陰に並んで腰掛けて、ラクラクをかじりながら、少しずつ少しずつパラスとレンガが積み上がっていくのをぼんやりと眺めていた。

職人は2人。老人と若者。もっぱら若い方が専門に積んでいく。老人の方は、脇でパラスを切ったり削ったりしながら、頃合を見計らってモルタルをこねて補充したりしている。若い棟梁に運良く仕事をもらった、近所のおじいさんといった感じだ。

使っている道具は結構多い。まずレンガ用の鏝が2本である。それにモルタルをこねる鍬が1本。水をまくための紙コップが2個。バケツも2個。
パラスやレンガを整型するのに、両端に刃のついたタガネが大小4本とカンナが3種類。金鋸の刃が数本。これはパラスを切ったり、モルタルを削ったり、長さを測ったりするのに用いる。
さらに、水平をとるための透明のビニールパイプ。スチールの小型直角定規2本、3mの日本製メジャー、金槌。以上である。

石とレンガの積み方は例によって擦り合わせ法である。水を垂らしてすり合わせ、セメントの粉をパラパラっとまいて再びすり合わせて固定する。その過程でセメントはパラスの粉と混じり合って、モルタルというよりもお汁のようになってしまうので、さて強度という点で寄与しているかどうかについては、はなはだ疑わしい。水でくっつけているようなものだ。
泥水の入った紙コップを上から手で覆うようにつかんで、人差し指と中指の間からちょろちょろと水を注ぐその華麗な手つきは、見事に様になっていて、さすがプロの首尾である。まるで年季のはいったバーテンダーのようだ。


2009年8月31日月曜日

032 ナンディスワラの寄付のしかた(2)


ナンディスワラを寄付するのはよいが、わたしの名前だけが残るというのは面白味に欠ける。事の子細をアピアピの関係者にPRして、寄付を集めることにした。

1週間のうちに、申込みが続々とやってきた。それで、31名の申込者から44名の名義で必要経費の2倍近くもの寄付が集まってしまった。
これは正直言って、全く予想しなかった事態である。そんなにたくさんの名前を刻字できるだろうか。それから、お金が随分余ってしまうのは、どうしたものか。

刻字については一応のルールをつくって、どうやっても全員の名前を彫ることにした。

余ったお金は、プールしておいて次にお寺で何か建設する時の足しにする。たちまち、バライ・クルクル(日本流にいえば半鐘小屋)の建設計画があるそうだ。

土台を作る左官屋さんと相談して、プレートの大きさは28cm×40cmが2枚ということになった。それを決めて、スカワティの大理石屋さんに行く。

「字が多すぎてとてもそのサイズにははいらない」

というのを、物差しを当てながら原稿を目の前で切り貼りしてみせて、何とか納得してもらった。

「なるほど、ではやりましょう」

料金は一人分が1万ルピア見当で、合計45万ルピアとのこと。かなり繊細な仕事になる。

「3日後に下書きを作っておきます」

最初の、レイアウトに対する熱意のなさからみて、多少の不安があったが、当日出かけてみると見事に下書きができていた。さすがプロである。大理石の石板に白い塗料を塗って、その上に鉛筆で44名分の名前の字の形が書いてある。手慣れたラインだ。

ちょっと修正してOKを出したら、いきなり彫刻の作業が始まった。
バリ人には珍しく度のきつそうなメガネをかけた若いアンちゃんが、上半身裸で石板の上に覆い被さるようにして、細かいノミを木槌でこつこつ打ちながら、一心不乱、巧みに彫っていく。
「わだばゴッホになる・・・」とつぶやきが聞こえてきそうな気迫である。

彫りながら、タバコを一吸いして左脇に置いた空き缶に待機させておく。それを時々口に運んで、フィルターぎりぎりまで吸い終わると勢いよくポーンと庭めがけて放り投げる。字の出来を透かして見ながら、また新しいタバコに火をつける。
こんなペースで、一人分をおよそ20分くらいで彫ってしまう。

3人分彫るごとに、白い塗料を削り取って仕上がりをほれぼれと確認し、やってもやらなくても変わらないような些細な修正のノミを入れる。

「ではやりましょう」と言ったボスは、そばの椅子にのんびりと腰掛けて、皮膚病のせいでまだらに毛の抜けたみすぼらしくもあわれな白い子犬の体に、シッカロールをパフパフ擦り込んでいる。
子犬は逃げたいのに尻尾をつかまれて、石粉だらけのコンクリート床の上でもがいている。もう、彼の体に擦り込まれているのは、シッカロールだか石粉だかわからない有様だ。

傍らではあいかわらず、汗で光る黒い左腕がノミを握って石板の上をワイプしていく。右腕の、これまた黒光りする木槌が、コツコツコツコツとリズムを刻みながら、そのノミの尻を追いかける。
やがて、火のついた短いタバコがポーン。もだえる子犬。
単調だけれども、ゆっくりゆっくりとことが進んでいく、熱帯の空の下の木陰の作業場である。

スカワティの棟方志功の職人技と、ゆっくりだが確実な生産のテンポを実に心地よく味わいながら、石粉まみれの非日常的な空気に包まれて、わたしはなんだか誇らしい気分になってしまった。


031 ナンディスワラの寄付のしかた(1)


マデのお父さんのバッパに、前にこんなことを言われていた。

「プラ(お寺)に彫刻を寄付しなさい。それに『ナミ』と書いておきなさい。そうすれば、私もあんたも居なくなった後に、村の人がそれを見て『ナミって誰?』と話すだろう。あんたの息子の太郎やうちのマデがその署名を見ると嬉しいだろう。彫刻を寄付しなさい。太郎とマデの時代のために」

しばらく知らん顔をしていたのだが、ある日、急にそのつもりになった。さっそくバッパに相談すると、それはよい、それはよいと大層喜んで、どこに何を置くかは難しい判断がいるので、私に任せてほしい、とのことだった。
それから、マンク氏(村のお坊さん)をはじめ何人かの重要な人への打診手続きを経た後、翌日耳打ちしてくれた答申の内容は、次のとおりである。

まず、置く場所はプラの一番正面の一番大きな門の前。そこに1対のナンディスワラを置く。高さは1.5メートル。
ナンディスワラというのは、ラクサソの中の一種である。ラクサソというのは守護神で、言ってみれば門番だ。バッパは

「ポリスのようなものだ」

と言っていた。仁王様の親戚、である。
ナンディスワラは、それぞれガドゥとチャックロウを持ったものにしなさいとのこと。いずれも携帯している武具の名である。

正面の大門の前に置くのには、ふたつの理由が挙げられた。
ひとつは、誰の目にも見えてよくわかるから、という理由。これにはバッパ一族の見栄が多分に働いているようでもある。

もうひとつは、プラの中の場所の性格がまだよく決まっていなくて、これから徐々に決まっていくからだそうだ。
天国に一番近い所とか、何とか、性格付けがされていくらしい。それに伴って、現在置かれている種々の神像は、新しい適所に移される可能性がある。正面の大門は、もうその心配はない。これには、説得力がある。

ただ、他の像が適所に移されるとしてそれは何年後のことかとは、敢えて聞かなかった。ひょっとしたら50年後のことかも知れない。そうすると、太郎やマデの時代ではなく、太郎の子供やマデの息子のトリスタンの時代ということになる。

ともかく、正面の大門の前にガドゥとチャックロウを持った高さ1.5メートルのナンディスワラを1対置くことになった。決めてからあらためてプラを見渡してみると、おそらくこのプラの中で最も巨大な神像となることに気づいた。そういえば、仁王様も大きい。

これには、さらに後日談がある。

日本に帰ってから、電話がかかってきた。その後再びマンク氏に相談すると、高さは3メートルでなければね、ということになったらしい。
前の話しと違うではないか、ということはいつものことなので、さして驚かない。
それから、置く場所も大門の前ではなくて、さらにその前面の大階段の下がよかろう、ということになったのだという。あそこなら、確かに3メートルくらいの高さがないとバランスが悪いだろう。

さらに、そういうわけで少し値段がはる、という話しが最後におずおずとつけ加えられた。どのくらい? 返ってきた答えは、並の給料取りの、どうかすると70ヶ月分!の金額であった。
バリでちょっと気前のよい風を見せると、たいていこのように事が運ぶ。このプロジェクトは、その後さらに大掛かりなことになってしまうのだが、そのことは後で紹介する。


2009年8月24日月曜日

030 電力事情


バリの電力は220ボルトで供給される。ただし、これは公称で、定格電圧が出ることは滅多にないらしい。現地の事情通の話によると、夕方の電力需要が大きい時には170ボルトまで下がることがあるらしい。
ついでに言うと、電力需要の多くは、各戸にほんの数個ずつついている10ワットか20ワットの電球である。これが夕方に一斉に点灯されて、大きな送電ロスを生む。

電圧変動は、別にテスターでモニターしなくても、電球の明るさで体感できる。
アピアピのテラスの壁面につけられたほのかな照明灯が、ふうっと暗くなったり、ふうっと明るくなったりする。
といって、別に困るほどのことではない。もともと電灯をつけたって、それほど明るいわけではなく、本を読むにはさらにランプを灯さなくてはならないのである。

困るのは、停電だ。大ざっぱな印象では、1日数回は停電になる。大抵は数分間、長くても1時間程度で復旧する。

運悪く、滞在中にまる3日間も停電したことがあった。1日2日は困らない。しかし、3日となると差し障りが出る。高置水槽の水がなくなってしまうのである。
ポンプが回らなくては井戸から水を揚げられない。料理は、ミネラルウォーターを使えばなんとかなるが、シャワーやトイレが使えない。

管理人のマデが嬉しそうに

「こうなったら、マンディ場に行くしかない」

という。マンディは、いわゆる沐浴のことで、村には何カ所かそのための場所が設けられている。
ただし、谷に下りて行くための階段がある程度で、囲いや水槽があるわけではない。素っ裸で岩を伝って、シルトやその他もろもろの混じった流水に身を浸すのである。
マンディできるようになれば、バリ通も一人前だと言われている。私が降りていくと、先にマンディしていた村の青年や娘たちが大喜びで

「ナミさん、バリニーズ(バリ人)!」

と、はやし立てた。ちょっと嬉しい気分。

印象的だったのは、アピアピが長期停電で大騒ぎしているのに、村の連中は全く平常だったことだ。何で停電が困るのか、という顔をしている。

電力がこんな調子なので、これではコンピュータを使うのにも不便だろうと思って、後日、強力な定電圧装置付き電圧変換機と無停電電源を秋葉原で購入して据え付けた。しかし、使わないままコケむしている。

バリでは、ちっとも困らないのである。


029 ヤシの木


ヤシの木の幹には、年輪がない。輪切りにしたのを見ると、導管がまんべんなくぎっしり詰まっているだけで、ほとんど見た目の締りというものがない。
それで、ヤシの木の幹はラワンかバルサか、そんな感じの柔らかくて軽い材料だと思っていた。

ところが、実際に触ってみると、これがとても堅い。堅くてずっしりと重い。釘を打つのも大変な程だ。
よく見ると、そういえば断面が竹に似ている。竹の茎の部分を中空部分にまでぎっしり充填したものと思えば、釘が立たないのも、重いのも道理だ。
ヤシの木の幹を柱にして、ひょいひょいと大スパンの屋根を支えている建物や、柱一本で重そうな方形屋根を傘のように載せている四阿をみて、心許ないなと思っていたが、これなら大丈夫だろう。

家が完成してからの話しだが、スイッチボックスを壁の上の方に取り付けようとしたことがあった。柱ではなくて、ヤシの木を挽いた板でできた、いわゆる回り縁に木ネジで固定しようとしたのである。

はじめに、木ネジ用の穴をキリであけようとしたが、これがほとんど穴にならない。
しようがないから、ハンドドリルを買ってきて続きをあけようとしたが、これも印がつく程度にしか歯が立たない。
やっとこさ申し訳程度の穴があいたところで諦めて、今度は力づくで木ネジをねじ込もうとしたら、なんと、木ネジの方がネジ切れてしまった。後日、日本から買っていった木ネジで再挑戦した時にも同様であったので、これは決して木ネジの品質のせいではない。
ネジ切れた穴は使えないので、場所を変えて再びハンドドリルで根気良く穴をあけることにしてがんばっていたら、なんと、今度はドリルの刃先が穴の中で折れてしまった。

すべてを諦めて、最後にどうしたかといえば、再度場所を変えたうえ、釘を思いきりぶち込んで、これ以上はいらないで余った部分を横に折ってやっと固定したのである。
いかにも不細工だが、ヤシの木が相手ではしようがない。さように、ヤシの木は堅い。

アピアピの柱もヤシの木だ。10本で大きな屋根を支えている。従って頑丈である。
真ん中の2本は、棟木までの高さが7メートル、そこまでの長尺物が手に入らなかったとみえて、下部6~70センチは幹の径にあわせたコンクリートの円柱を現場打ちで継ぎ足してある。むしろ、このコンクリートの柱の方が、何となく危なっかしい。
この柱を立てるときは、その重さを想像するとさぞかし大変だったろうと思う。残念ながらまだ見ていないが、うちの建築主任のラーマは、その様子をわざわざビデオに撮ってあるそうだ。

ヤシの木は堅いだけでなく、重い。水に入れても沈む。強烈なスコールが降った後は、たいていどこかのヤシの木が雨の重みで倒れている。根っこが球状で転倒しやすいらしい。
これを私は風倒木ならぬ雨倒木と呼んでいるが、雨倒木で道路が塞がれて通行止めになることもある。直撃されるとたぶん車はぺっちゃんこだ。恐い。

着工前のアピアピの敷地内にヤシの木が数本生えていた。何も知らない私が、風情があるから残してくれと言ったら、関係者だけでなく通り掛かりの人までが加わって、血相を変えて猛反対した。当たり前だ。

堅くて重いヤシの幹は、堅固な建材や家具材として利用する。
あんなに堅いのに、大工さんは手斧とノミだけで、かなり複雑な加工をする。アピアピの螺旋階段もヤシでできているが、その手際よさには、恐れ入った。

ヤシの実は、中のジュースを飲み干した後、殻を燃料にしたり炭にしたり、繊維を飾りに利用したりする。葉っぱは手際よく小箱に細工して日々のお供え物(チャナンサリ)の入れ物などに使う。

ヤシの木がなくては、バリの暮らしは成り立たない。


2009年8月21日金曜日

028 石像の彫りかた


6月、ペネスタナンのお寺(プラ)で、石彫りに精出している職人たちがいた。
お寺は改築して4月に盛大なオダラン(お祭り)をやったはずなのだが、新築した建舎のひとつの入口周りがとうとう未完成のままで間に合わなかったらしい。あらためて石の階段を作り、その手すりを兼ねた一対の大きな竜を、よってたかって彫っている。

お寺の中には小さな建舎がいくつもあり、階段の竜はこれが完成すれば計3対になる。ナーガという名前らしい。
誰が考え出したのか、階段の手すりを蛇や竜で飾りたてる風習はアジアのいたるところに見られるが、なかでもこのナーガは、上海やバンコックなどのそれと比較すると姿が単純でパワーがある。
手足がないから、竜ではなく蛇かもしれない。

職人は、6名がかりである。ボスは30歳前のロージャ氏。他は皆若い。ひとりは27歳、もうひとりは24歳と言ったが、平均年齢は25歳程度か。
全員ギヤニャールのスカワティ村、シンガパドゥのバンジャールから来ている。石も、その近辺から持ってきたらしい。

石というよりも粘土に近い。この近くのバツブラン村でとれる石は、美しい地層模様の入ったちょっと柔らかい石で、色や質感はこれによく似ている。しかし、こちらはむしろ、ちょっと硬い粘土と言ったほうがよい。
普通のコンクリートブロックより一回り大きく、逆に厚みは少し薄いサイズに整型してある。

これを積み上げて、大まかな形をつくる。積み上げるには、石材にカンナ(!)をかけて面を平らにした後、すでに積んだ石に擦りあわせて密着させ、ほんの気持ちだけセメントをふりかけて接着する。

積み上がった塊を手斧で荒削りし、タガネのようなもので形を整えて、最後は糸のこの刃で作ったノミでチョコチョコ擦って仕上げる。

これが中間仕上げである。本当に完成させるには、さらに小さなノミを用いて、繊細な装飾模様を全体に施す。

一般には、この工程のどこで止めても一応完成した気持ちになれるようだ。

大まかな形に積み上げただけのものがたくさんあって、件数的にはこの段階で終わっているのが大半である。仕上げると何になるのか、おおよその想像はできるので、「例えばここにナーガがある」というつもりになれるから、それでいいのだろう。

しかし、中にはよくわからないものもある。たぶん、次に仕上げる人の創造力に任せる場合もあるのだろう。次に、というのが何年後なのかは、おそらく誰にもわからない。大まかな形のままですっかりコケ蒸して、それはそれで重厚な作品化したようなものも多い。

お金ができると、中間仕上げまで持っていく。さらにお金ができると、最後の装飾模様を施す。
このプラの3対のナーガは、1対がここまで行っていて、1対が大まかな形のまま、今作っているのがどうも中間仕上げ止まりのようだ。したがってここに来ると、「ナーガの作り方」の3駒写真がいっぺんに撮影できる。


横で見ていたら

「やってみる?」

といっていきなりタガネを渡された。下手に削りすぎると大変だ、タガネはいかにも勇気がない、というと

「大丈夫、まだ完成でないから」

と、暢気なものだ。失敗しても石材を継ぎ足すなどの修復が可能なのだろうが、あまり迷惑をかけてもいけないので、糸のこの刃に持ち替えて、仕上げを手伝うことにした。

右手で構えて左手を添えて、サクサクと削っていく。この感じはとても快適で、思わず気が入ってしまった。木彫よりもはるかに楽である。

暇なときには、どこかの彫刻現場に行って手伝わせてもらうのもよい。確実に、数日はつぶせる。

2009年8月20日木曜日

027 バリ料理の食べかた


パダン料理というのがあって、バリ島でも結構流行っている。パダンはスマトラの地方の名前である。

パダン料理店にはいると、だまっていても目の前に皿がたくさん積み重ねられて出てくる。
どれもこれも黄色くて、同じように見える。しかし、よく見ると、それぞれの皿に盛られているのは、鶏の足、内側にゲソを詰め込んだイカ、ゆで卵、小エビの炒めたもの、キャベツなど、結構いろいろだということがわかる。いずれもクニルという香辛料のはいったスープで煮立てられて、生姜色をしているのだ。
とてつもなく辛いものもあるが、たいていは口に合って旨い。好きな皿だけとって食べて、後で精算する。白いご飯と飲み物は、別に注文する。

パダン料理の食卓には、念のためにスプーンとフォークとが添えられているが、この野性的な食物を礼儀正しくしとやかに食べる人はいない。たいていの人が手で食べている。

それから、バリ島の最もポピュラーな食べ物に、ナシ・チャンプルがある。

鶏肉や豚肉、野菜の煮たものがご飯と一緒に盛ってあって、これまたクニルのスープがかかっている。日本で言うとチャンポンご飯である。おそらく、チャンプルとチャンポンの語源には共通するところがあるのだろう。チャンプルは、“まぜまぜ”というほどの意味、ナシはご飯のことである。
村のワルン(よろず屋)にも売っていて、これはテイク・アウトできるのでナシ・ブンクスという。ブンクスは“包む”こと。バリ版ほか弁である。
ナシ・ブンクスは、片面に油を引いた包み紙を上手に折って包んであり、そのまま開いて左手に載せて、歩きながらでも食べられるようになっている。

ナシ・チャンプルやナシ・ブンクスをフォークや箸で食べる人も、まずいない。

手で食べるには、ちょっとしたコツがある。うまくやらないと、例えばご飯つぶがばらけてしまったり、口に入れる時に周りに付いたり落としてしまったりする。

まず右手の親指と小指を曲げて、残った3本の指を皿の中で弧を描くように撫でて食べ物を集める。集めた塊りを、同じ3本の指でひょいと内側にすくって、そのまま口に持ってくる。口の手前で、曲げていた親指の背ではじくと、塊りがポンと口に入る。その間、指先の描く線は実に滑らかで、澱みがない。
ネイティブたちの手さばきは、流れるように美しい。

玉村豊男氏は、ナイフ、フォークを使う食べ方、箸を使う食べ方、手で食べる食べ方について、詳細な描写と分析を行い、この順番で野蛮度が下がっていくと結論づけて、手で食べる作法の上品さを高らかに称賛しているが(「文明人の生活作法」)、これは実際にやってみればすぐにわかることだ。

手さばきの優雅さや色っぽさを体得するには多少年季を要するものの、手で食べる利点は初心者にでもすぐに納得できる。

まず、ナイフやフォークあるいは箸と皿とが接触するときに発する、カチャカチャという音がしない。これは当然だ。
それから重要なことは、舌よりもやや鈍感な指先でもって、これから口に入れようとする食物の固さや温度を予めチェックできる、つまり、舌触りについての予備知識を持てること。細かい骨なども事前に指で取り除いておくことができるので、口に入れてからシーハーしなくてすむ。
ひょっとしてどこかの種族では、指先である種の味、例えば辛みのチェックをできたりするのかもしれない。

安心して食べられるから、表情もゆるみ、なごやかさがでてくる。

バリでは、ナシ・チャンプルやパダン料理を手で食べることをお奨めする。ただしその間、トイレでは右手で紙を使わないよう気をつけたほうがよい、と思う。


026 バリの運転事情(2)


I氏は、ウブドゥに長く住む日本人のおじさんである。名古屋の出身と聞いた。
わたしがバリに行き始めた1980年代には、すでにウブドゥ近郊に日本料理の店を出していた。運転免許について、彼から聞いた話しがおもしろかった。

I氏はバイクに乗っている。乗り始めるときに、免許をどうやって取ろうかと研究した。詳しいことは忘れたが、いろいろと方法があるのだそうだ。教習所に通うとか、個人指導を受けるとか、直接試験を受けるとか、そういうことだろうと思う。
それで、それぞれいくらかかるか、ということを試算した。いずれにしてもかなりかかる。それで、もうひとつのオプションを思いついた。つまり、無免許で通すことである。

無免許で捕まっても、おまわりさんにいくらか袖の下を払えばそれで処理できる。
毎回××ルピア払うとして、年に××回捕まるとして、と計算すると、このほうがはるかにコストベネフィットが高い、という結論に達し、それで免許を取るのをやめた、というお話しである。

彼はさらに、その後、皮算用よりも捕まった回数は少なく、大正解だったということを、真面目な顔で淡々と語った。

「それに、捕まっても、『わたし、インドネシア語できませ~ん』という感じで、日本語でわあわあ言ってると、相手も困って、しゃあないなあ、とタダで放免してくれるケースが多いから、さらにお得ですね」

すこし考えさせる行状ではあるが、とりあえず笑える。

わたしの経験をいうと、これまでに免許証の提示を求められたことは、ただ1度しかない。
なんでもない時に突然警官に止められて、「はい、免許証」と言われた。ところが、いつも携行していた国際免許証を見せると、驚いたことに「これは何だ?」と受け付けてもらえない。それで、だめもとで日本の免許証を見せたら「OK」ということになった。
国際免許というのは、いったい何だったのだろうか。それ以来、わたしも厳密には無免許で通している。

もうひとつ、運転で捕まったお話し。

夕日とサーフィンで有名なウルワツにひとりででかけてみた。
上り道が断崖の上で終わっていて、そこに大きな円形の広場があった。車をそこに止める。ほかの車は円周に沿うように無造作に止めてあって、まったく効率がよくない。わたしは、きちんと円周に直角に止めた。それがマナーというものだ。
そこから、マウンティンバイクに乗せてもらって、崖を降り、しばらく砂浜で遊んでもとの広場に戻ってみると、車の周りに人垣ができている。

なんだ、なんだ、と近寄ると、みんながはやし立てる。

「わあ、この車、止め方がよくないんだってー!」

人垣の中から、ひときわ気の弱そうな小柄な男性が出てきて、おずおずと説明をはじめた。

「ほかの車のように、円周に沿って止めなくてはいけない。あなたは、交通違反をした」
「あなたは、何ですか?」
「わたしは警官である」

確かに、それらしく黒い帽子をかぶっていた。いろいろと反論してみたが、この男は困ったようにもじもじするばかりで、一向らちがあかない。あきらめて、罰金はいくらかと聞くと

「10ドルである」

と、法外なことを言う。なにが10ドルだ、しかも、なんでルピアでなくてドルなのか! 頭にきたので、人垣に向かって

「この人は、ほんとうに警官か?」

と問えば

「わあ、そうだよー、そうだよー」

と返ってきた。あほらしくなって男を振り返り

「1ドルでどうだ」

というと、それでもよい、ということになり、ポケットから1ドル紙幣を出して払った。それでおわり。
それまでの人垣がくもの子を散らすようにいなくなって、当のお巡りさんも瞬く間に消えてしまった。
わたしは今でも、あれは偽警官でなければ私設警官だったと信じている。

あの時にも、そういえは免許証の提示は求められなかった。

教訓 : 車を駐車するときは、ほかの車と同じように止めましょう。


2009年8月6日木曜日

025 バリの運転事情


バリの人たちの車の運転には、慣れることができない。

彼らは、田舎の1車線の道を80キロで飛ばす。見通しの良いフリーウェイではない。両側には集落の家並みがあって、道ばたに座っている人がいるし、路上を鶏や犬たちがわがもの顔にうろうろしているのである。

前を走っているトラックの荷台には、20人もの人が乗っていることもあるし、雨の日などには頭からポンチョをかぶった3人乗りバイクが脇を駆け抜けたりする。

もっと悪口をいえば、彼らにはスピードメーターが必需品であるという感覚がない。
これまで乗ったタクシーや、借りたレンタカーの中で、信頼のおけるメーターが付いていたためしは、ほとんどない。

うちで乗っていたシビックのメーターも190キロを指したきり、ピクリとも動かなかった。この車を売りに出そうとして、新聞広告を出したのだが、その広告の文面の最後には「パーフェクト コンディション」と書いてあった。スピードメーターはいわば飾りのうちであって、コンディションの中に入らないのである。

さらにいうと、かつてヌサドゥアの超高級リゾートホテルを介して借りたレンタカーの「カタナ」(スズキのジムニーの現地バージョン)は、運転席のドアが開かなかった。持ってきたレンタカー屋の青年に

「ドアが開かない」

と文句をいったら、驚いてすぐに調べてくれたが、助手席のドアを開けて

「大丈夫じゃない?開くじゃない」

と、ニコニコしながらのたもうた。もう、びっくりさせないでよ、悪いんだから、という調子である。運転席が開かなくても、助手席から入れるんだから、なあんにも問題はありはしないのだ。

おかげで、何日か借りている間、助手席からにじり入ったり、運転席の窓から逆上がりをしながら潜り込んだり、いろいろな工夫を余儀なくされたが、考えてみればそのことで「走る」という車の機能に、何ら障害があったわけではない。

今でも問いつめられれば、スピードメーターや運転席のドアは必要ではないかと私は思うのだが、それがないと車が走らないかといわれると、心が揺らいでしまう。
彼らには彼らの理屈があって、そういうものはアクセサリーにすぎないのである。
その理屈を貫徹して進んでいけば、とてつもなく新鮮で刺激的な環境システムが実現するのではないか、と想像するのだが、しかし、それは無理というものだろう。

例えば

「うちの車はすべて運転席のドアが開きます。これがパーフェクトというものです」

というレンタカー屋さんが現れれば、件の青年は心を入れ替えざるをえなくなるだろうし、ドライバーも

「そうでなくちゃ」

という気分に簡単になってしまうだろうから。
地球時代の文明は、平準化の方向にしか進まなくなっている。


さて、スピードの話しに戻る。
ときどき、恐さのあまり、顔をひきつらせてたしなめることがある。

「おい、マデ、急がなくていいからね!」
「・・・・・・」
「スピードを落としなっさい!!」
「・・・・・・」

マデは納得しないまま、それでも少しスピードを緩める。すると、後ろの車がいらいらしてクラクションを鳴らし、パッシングしたあげく、さっと追い越していく。マデは我に返って、私の要請を忘れ、条件反射のようにスピードを上げて抜き返す。

バリで私は1分を争うような用のあったためしがない。いつも時間には充分余裕がある。バリの多くの人たちも同様のはずだ。でなければ、約束に3時間も遅れて謝りもしないし誰も怒らない、というような社会秩序を維持できるわけがない。

それなのに、自動車はなぜ、こうもあくせく走るのか。

悩んだあげく、私はこう考えることにした。彼らの言い分は、こういうことではないか。つまり、

「車は早く着くために使うのだから、とにかく速く走らせることが大切に決まっている。そうでないのなら、歩けばよい。速く走らせるには、他の車と利害がぶつかるのは当然である。その時は、とにかく勝つか負けるかなのだから、譲るなどというのは愚の骨頂だ。それがいやなら、最初から歩けばよい」

我ながら実に明解な理屈だ。そういうわけで、あらゆる道路上では強い者が勝つというシンプルなルールにもとづいたカーチェイスが、日夜繰り広げられている。

「それがいやなら・・・・」

という目で見られるのがうっとうしくて、最近はもう半ば諦めて文句を言わないようにしているが、慣れたかといわれると、それは別問題である。


2009年8月3日月曜日

024 カフェAPI-API


API-APIの隣にカフェをつくった。本体が完成してから数年後のことである。

カフェは、ウブドゥの「クブク」(004回参照)を見習って、ライス・フィールド・ビューが売り物である。
客席に腰掛けて田圃を眺めると、その中を遥か向こうからのんびり蛇行して近づいてくる一本道がよく見える。

これは、網を張るには好都合だ。一本道を汗びっしょりになって歩いてくる観光客が見えると、見張りが「タムー、タムー(客だ客だ)」と叫ぶ。
それを聞くと、うちのお手伝いさん兼カフェの看板娘のヌンガが道に飛び出して待ちうけ、ニコニコしながら声をかける。

「ウェア アーユー ゴーイング?」

これで、3組のうち1組くらいはカフェに引っぱり込むことができる。こうやって蜘蛛助みたいな客引きをするのは、なかなか楽しくて、皆が交代で見張りや連れ込み役を引き受けては、成功する度に万歳を三唱した。
隣村のカティック・ランタンに巣を張り、客を騙してつまらない絵を法外な値段で売りつけているニョマン(015回参照)の気持ちが、少しわかる。

こういうカフェに寄る客は、まずは地獄に仏を見る思いでコールド・ドリンクをむさぼり飲む。
それから、安堵感のためなのか、そもそも好き者でないとこんな店には立ち寄らないということなのか、来る客はひとり残らず話し好きで、社交性に富んだ人たちである。

カフェ・アピアピの栄えあるお客第一号は、奇しくも日本から来たYさんという男性だった。当時49歳。ひとりで、「たまには中央線に乗って高尾あたりでも散策してみるか」といった軽い出で立ちでひょこひょこやってきた。
ところが実は、あてもなく日本を出てもう1か月になるのだという。

まずバンコクに行って、チェンマイ経由で中国の雲南省に入り、また再びタイに戻って、そこから直接バリにたどり着いたばかりとのこと。
空港に降りたってすぐタクシーに乗り、まっすぐウブドゥに来たというから、なかなかの通かと思ったら、バリははじめてだという。1か月の間に、随分鼻が利くようになったらしい。
バリの後は、ネパールに行ってみたいとのことだった。

一体どういう仕事かと伺うと、会社を辞めて失業中の傷心旅行なんですよ、とさびしそうに答えたこの人も、実に話しの好きな人だった。そうですか、私が最初ですかと感激してくれた。マデの話しによると、Yさんはその後も何度か寄ってくれたそうだ。

二組目にやってきたのは、オランダから来たカップル。ソウル生まれで、コンピュータシステムのコンサルタント会社の技術者という好青年と、その彼女と思しきオランダ美女。

ココナッツ・ジュースが飲みたいという。
メニューには用意してなかったのだが、さっそくヌンガが台所に走っていったと思ったら、程なく椰子の実にストローを突き刺したジュースがふたつ、お盆に乗って出てきた。

よくあったな、と聞いたら、ちょうど仕事を終えて休憩していた左官職人をつかまえて、実をとってもらったのだという。値段のつけようがないので、オープン記念のプレゼントだというと、逆にオープン記念にといって1万ルピア置いていってくれた。
マデはそれを見て、「いつも『ジャスト・オープン』だと言いましょう」と喜んだ。

うちの客はあまりメニューを気にしない。メニューにあろうとなかろうと欲しい物を注文する。
この後でやってきたイギリス人は、マンゴーを所望したそうだ。これは、やはりヌンガが機転をきかせて、村のワルン(よろず屋)に買いに走ったらしい。

3日目にやってきたトロントのインテリア・デザイナと、その後に来たドイツの若いお医者さんは、それぞれトーストとジャッフルを食べていった。これは客にも作る側にも好評だったようなので、後でメニューに追加した。

開業当時の話しをしたのは、実はこれが最盛期だったからである。

メニューにないものは無料にしてしまうし、マデがオーストラリア人の観光ブローカーに丸め込まれてほとんどただ働きさせられるし、といったようなことがあって、全然ビジネスにならなかったようだ。ひょっとしたら、旅行会社をはじめたP氏(010回参照)のような振る舞いもあった可能性がある。

何年かは営業していたものの、そのうち、飽きてしまったのか、いつのまにかうやむやになって、いまはとうとうトイレつき無料休憩所となってしまっている。
でも、眺めがよいし、道からちょっとはいっているせいで落ち着くので、朝ご飯を食べるときに使ったりしている。

ウブドゥに行かれることがあったら、ぜひお立ち寄りいただきたい。ペネスタナンのカフェAPI-APIといえば、わかると思う。たぶん。


2009年7月31日金曜日

023 バンジャール


バリ人は、何階層もの社会集団に属している。
これは、おそらく世界中そうだろう。会社の仲間、町内会、××組合、親戚づきあい、公民館のサークル、など、考えてみればそれらが複雑に入り組んで身の回りの社会を構成している。

バリの場合はどうか。
まず、慣習村といわれるものがある。これは宗教的集団でもある。慣習村は、複数のバンジャール=集落共同体で構成される。

例えば、ウブドゥ郡のなかの行政的な村であるサヤン村には、いくつかの慣習村が含まれるが、そのうち、ペネスタナンという慣習村は、ペネスタナン・クロッドとペネスタナン・カジャというふたつのバンジャールでできている。
慣習村ペネスタナンは、それぞれ役割の異なるワンセット3つの寺を共有し、お祭りなどは、慣習村として行う。いっぽう、さまざまな日常生活上の必要、たとえばいざこざの調整などは、それぞれのバンジャールの中で共同で処理している。最終調停のために、人望のあるマンクさん(お坊さん)がバンジャールにいる。

API-APIの近くで突然大蛇が出現し、上を下への大騒ぎになったときも、いち早く伝令がマンクさんへ飛んだ。「それは、森の守り神ではないから、殺してもよい」という裁定をもらって、きゃあきゃあ逃げ惑いながら、とうとうみんなで叩き殺した。「近所にこんなのがいるのか」と驚くと同時に、マンクさんの裁定の重みにも感心したものである。

マデによると、彼はもとはペインター(絵描き)だったがある日突然目覚めて僧侶になったという話しだ。私が初めて会った時は38歳ということだったが、いかにも威厳があって、60前としか見えなかった。20歳近く若い奥さんがふたりいる。

ちなみに、ペネスタナン・クロッドの人口は約千6百人で、バンジャール・メンバー数は336人ということだから、日本でいえば世帯主がメンバーということだろう。

マンクさんのほかに、「村長」さんが役割や任命形態に応じて複数いるらしい。その仕事場も、役場であったり自宅であったりするらしい。身分証明書をもらうのに、あっちの村長さんでなくて、こっちの村長さんだとかいう、ややこしい話しがあって、結局よくわからなかった経験がある。

バンジャールのほかに、スバックという、日本で言えば水利組合にあたる組織がある。スバックは、耕地の所有、管理を行う。

バリ島全体は、アグン山とその周辺の火山が作ったなだらかな裾野でできていて、そこを小さな川が幾条も放射状に流れ下る。その谷は、狭く深い。
集落は尾根に沿って立地し、尾根から渓谷の斜面にかけて棚田が開墾されている。棚田は、ところによると2~3メートルほどの幅しかない精緻なものだ。いわゆる千枚田である。黒土を使ったほとんど直壁に近い土破で、なめるように手入れされている。ライステラスは、バリの観光資源でもある。
中に、電線がのたうちまわっていないのがよい。

川は集落や水田のずっと下を流れているので、利水のためには、はるか上流から細い水路を延々と引いてこなければならない。当然、水田への水掛りの順番や権利の関係は微妙でかつ死活問題でもある。
したがって、このスバックの結束と権力は大変強いらしい。時々、高々と固有のエンブレムを掲げたスバックの事務所を見かけることがある。

そのほかの社会集団といえば、前にふれた集落内の土塀で囲まれた大きな敷地で営まれる居住単位は、父系の親族集団である。それから、たとえばコーヒー摘み組合、舞踊集団など、目的をもって結成された任意の私的集団がたくさんあって、集会所ではしょっちゅういろんな会合が開かれている。

バンジャールの集会所は、バライ・バンジャールという。たいてい幹線道路に面して設けられていて村のへそになっている。昼間でも必ず何人か人がいる。
床の段に腰掛けてぼうっとしていたり、ぼそぼそ話しをしていたりするが、いったいあれは何をしているのだろう。

バンジャールの入口には必ずバリ特有の「チャンディ・ブンタル(割れ門)」があって「ようこそ××村へ」と書いてある。出口にも「ごきげんよう」の割れ門がある。バンジャールの境界ははっきりしているし、住民の帰属意識は大変強い。

バリ州の観光局の幹部にお会いして話しを聞いたことがある。
最近の観光入込客数では日本人がオーストラリア人を越えて第1位になったとか、バリ島の主な地域では高さ15m以上の建物は原則として禁止されている、なぜ15mかというとそれが標準的な椰子の木の高さだからだとか、そんな話しを聞かされてから、「バリの観光行政で最も大切なことは何ですか?」と質問した。それに対する彼の答えは

「バンジャールを守ることです」

というものだった。
バリの観光資源は伝統文化と田園の風景である、それを守るのはバンジャールの団結である、というわけだ。


2009年7月23日木曜日

022 ロンボク海峡の渡りかた(2)


日本の船の1級ライセンス(小型船舶なのだが)をもった人が操船してくれることになったので、クルーたちは大喜びでクモの子を散らすようにいなくなってしまった。
遊びに行ったのである。

その後のコックピット内の様子。

まず、船長はマクルフ氏である。この人は、出航後ずっと部屋の隅の床に敷いたゴザの上で眠りこけていたので、とうとう話しをする機会がなかった。入港時に気が付くと、いつのまにかきちんとキャプテン・チェアに座って、それなりにボスの格好をつけていた。

わたしに操舵輪を委ねたイスミアルト氏は、部屋の中をあちこちしながらだべったり、お茶を飲んだりして過ごしていたが、途中、外のデッキ上に10人ほどの米国人青少年グループがあられもない様子なのを発見して、はしゃぎながらカメラで撮ったり、からかったりしていた。

彼らは、くそ暑い甲板の上で、男女ともほとんど半裸になって、いちゃついていたのである。

それでもイスミアルト氏は、必要な時にはひょいとわたしの傍らに現れて、

「はい90°」

とか

「はいこれから105°」

とか適切な指示をして操舵手としての責任を果たし、また彼のレクリエーションに戻っていくのである。

ルンバル港に入る直前、わたしと交代してからは、まるで人が変わったような真剣な目つきで、石の崩れかけた相当ワイルドな岸壁に、機関操作だけで巧みに接岸した。さすがプロである。

背が高くておしゃれなアルヤ青年は、船員のはずだが、結局何の担当かはわからなかった。最後まで女の子とおしゃべりしたり、大きな声で楽しそうに歌を歌ったりしていただけで、船の用を果たしている風がなかったからである。
時々、私のところにやってきてコーヒーを勧めてくれた。この船の来歴も彼が話してくれた。

アルヤ青年の相手をしていた女の子はハルティニ嬢である。彼女は乗客のひとりでどこかの公務員だそうだが、船が出るなりコックピットに入ってきて、いきなり着替えをはじめたので、わたしが最初に注目した人である。
着替えはイスラムのお祈りのためであったが、それが終わった後も彼とふざけあって、最後までそこで過ごした。

ハルティニ嬢以外にも、20畳はあろうかという広いコックピット内ではいろいろな人が遊んでいて、お茶を飲んだり歌を歌ったり、カードをしたりしている。そのうち何人かは正規の船員らしいが、いったいどれがこの船のクルーだったのかは、上の3人以外にはとうとうよくわからなかった。
わたしにときどき近づいてきて、コンパスに触れようとする人がいたので、そうかなと思ったら、ただの乗客だった。コンパスの台座の途中に、かつては何かの装置がつけられていたらしい孔があって、そこに灰皿が置いてあったのである。

船は、水深2千メートルはあるというロンボク海峡を、わたしの操縦で一路東に航路を保った。幸いにして波静かな日だ。最初は全く他の船に出会わず、ひたすら大海原を進んだが、しばらく行くと右手前方にうっすらとヌサペニダの島が、正面にはもっとうっすらとロンボクの山影が見えてきた。

そのうち、こちらに向かってくるフェリーに会った。「確か、右側通行は世界共通のはず」と緊張しながらすれ違う。すれ違いながら、向こうの船の窓が見えた。手を振っているのがいる。こちらのコックピット・メンバーもきゃあきゃあ言いながら手を振っている。

日本から5千キロ離れた海峡に来て、この天真爛漫なクルーたちと大勢の乗客と、眠りこけた船長と、それにトラックや乗用車を満載して、わたしはコンパスとにらめっこしながら、ひとり緊張してラダーを握り、550トンの船を進めた。

ロンボク海峡を渡りたいという人がいたら、ぜひフェリーで行くことをお奨めする。
乗船したら、一番上の甲板に進んでコックピットを覗くこと。それに、船舶免許をあらかじめ取得して携行し、それをちらつかせること。

フェリーの高い艦橋の上から、自分で船を動かしながら見る、ロンボク島の海岸は絶景である。とくに、入り江の中をルンバル港に向けて静かにアプローチしていく途中、両岸のマングローブ林と、その中に点在する民家のたたずまいを眺めていると、地球への愛しさがどっとこみ上げてくる。

たとえ、港を降りたとたんに警察が待っていて、その場で逮捕されたとしても本望だ、という気分になる。


021 ロンボク海峡の渡りかた(1)



ロンボク島はバリ島の東隣の島である。マデが高校時代を過ごした島でもある。彼に言わせると、まだ「昔」がたくさん残っていて、素晴らしいところらしい。
ロンボクに行くには、ロンボク海峡を越えなければならない。越えるには、飛行機で行くか、フェリーで行くか、あるいは観光客用のクルーズに参加するか、小舟をチャーターするか、いくつかの方法がある。

フェリーで行ってみることにした。ウブドゥから東へ車で1時間ほど走ったパダンバイの港から、ロンボクのルンバルという港にフェリーが就航している。飛行機だと25分だが、フェリーでは4時間かかる。


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ロンボク海峡は、近いところでほんの30キロほどの狭さだが、実はここは、イギリスの動物地理学者アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが発見した「東洋区とオーストラリア区の動物相の境界線」いわゆるウォーレス線が通っていることで有名なところである。
ウォーレスは、クンバン・ジュパン号で1856年6月15日にバリ北岸のブレレン港を出て、ロンボク海峡を横断し、2日後にロンボク島のアンペナンに到着した。

おそらくウォーレス線に関係するのだろうが、ウェゲナーの大陸移動説(ウォーレスの航海から56年後の1912年に最初の2つの論文が発表されている)に依拠すると、この地域は、大昔の超大陸であるローラシア大陸とゴンドワナ大陸が、再び邂逅してぶつかった場所に近い。
プレートテクトニクスでは、ゴンドワナの末裔のオーストラリア・プレートと、ローラシアの一部の中国プレートとの合わせ目が、太平洋プレートの発達によって干渉し、ぐじゃぐじゃになっているところである。

この海は、やはり船で渡るべきではないか、というのがフェリーにした理由である。

乗ったフェリーはパダンバイ13時30分発のプル××・ヌサン××(インドネシア群島の王座)号、550排水トン、乗客定員300名、積載車両35台の堂々たる船である。
1964年に日本で建造され、1997年にこちらに移籍した。大阪から持ってくるのに14日かかった、途中しけで大変だったと、吐く真似をしながら船員が説明してくれた。

これから書く話しは、ひょっとしたら法に触れることかもしれないので、船の正式名称と乗った日時は内緒である。

客室デッキは満員で、なおかつ4時間過ごすには殺風景で退屈そうだったので、さらに梯子を登って操船デッキに上がった。
操舵室の中には、確かに日本語で「点灯」「停止」「熱式火災報知装置」などと書いてあって、その下にそれぞれインドネシア語の表示がテプラで貼り付けてある。

中を覗いていたら、船が港内を出たところで、操舵輪を回していた船員が「入る?」と誘ってきた。結局これをきっかけにして、その後3時間半の間、私ひとりでこの大きな船を操縦することとなった。

以下は、操船しながら観察したり取材したりした、コックピットの中の様子である。(つづく)

2009年7月21日火曜日

020 ウブドゥは世界の銀座の巻(つづき)


マデの実家に遊びに行って、帰りに斜め向かいの家の門をのぞいていたら、中からニコニコしながらおじさんが出てきた。「スダ マカン?」というので、「もう食べた」というと、「何か飲む?」と、本当にホスピタリティにあふれている。
バリ・コピ(バリのコーヒー)をいただきながら、彼の話しを聞いた。

「わたしは、この家の住人でバグスといいます。小学校の算数の先生です。先生の給料は本当に安い」

と、ぼやいたあと、話題は日本のことに移った。

「以前、2ヶ月ほど日本に行ったことがあります。輸出入をやっている日本人のミスターHが招いてくれた。神戸を拠点にして、東京や京都や奈良や、そうそう広島にも行った。日本料理はまずいので、青山や芦屋のインドネシア料理店によく行った。すご~く高いね。おどろいた。でも、ミスターHが全部払ってくれた。
ミスターHは、この家にも2度来たことがある。彼はカナダにも家を持っていて、東京には研究所を・・・」

えっ? ミスターHのフルネームは何ていうの? と聞いたら、わたしでも知っている高名な商業プランナーの名前を告げてくれた。そりゃすげえ、と喜んだら、バグス氏は家の中から、よれよれになったグラビア本を持ち出してきた。昭和56年発行で、H氏編とある。その中の1ページに、若いバグス先生がちゃんとバリの正装をして、笑いながら写っていた。

H氏には面識がないが、後日、そのパートナーだったM氏にたまたま福岡でお会いする機会があったので、そのことを話題にしたら

「ああ、あれはおれがHを連れて行ってやったんだ。バグスも、おれが世話をしてやったんだ。元気だった?」

という話し。世間は本当に狭い。

そういえば、API-APIの建築主任の知り合いの家を訪ねたときに、その家の長老グスティ・グデ・ラカ氏が語ってくれたイサム・ノグチの思い出話しも興味深かった。

「うちに、日本人の彫刻家がときどき来ては逗留していた。頑固で乱暴なやつで、ほかの外国人とよく喧嘩してわたしを困らせたもんだ」

と、目を細めながら話したあと、

「しばらく来なかったんだが、この前久しぶりにふらりとやってきて、自分の作品集ができたと言ってこの本を置いていった」

というその本を見せてもらうと、イサム・ノグチの作品集で、表紙の裏にご本人のサインがはいっていた。1985年4月23日の日付がはいっている。この前というのが、1985年というのもすごいが、これはノグチ氏の亡くなる3年前、彼が81歳の時のことである。このお話しには、いろいろと感銘を受けた。

API-APIの近くに、リンダ・ガーデンという広大なお屋敷があって、リンダさんという英国女性がそこに住んで竹の家具を製作している。

ある年、ここでバンブー・コングレス&フェスティバルをやるというので出かけてみた。屋敷内は竹づくしで、家から橋から野外ステージまで、あげくのはてにアトラクションのブラスバンドの楽器まで竹でできているのには感心した。

世界中から大勢の人が押しかけていて、大盛況であったが、彼女が招待した顧客のなかに世界的有名人がたくさんいて、当時のゴア米副大統領とミュージシャンのデヴィッド・ボウイが来る、といううわさであった。
彼らが本当に来たかどうかはわからなかったが、考えてみると、日本では家の隣にゴア氏が来るなどといううわさは、たちようがない。

ウブドゥは、つくづくすごい所である。

2009年7月16日木曜日

019 ウブドゥは世界の銀座の巻


マデの実家は、村の中心部にある集会所から集落内にはいっていく道の途中を折れて、さらに狭くなった坂道の路地を少し上ったところにある。道の両側は、ずっと土壁が続いていて、各家に一ヶ所ずつ門がある。
門は、道から何段かの階段をあがるようになっていて、敷地は道よりも1mかそこら高い。おそらく、スコールの時には路地が川になるのだろう。

それぞれの家の敷地はやはり土壁で仕切られていて、門をはいったところにヒンズーの神様をまつった祠(サンガ)がある。石でできていて、日本風の感覚からは屋敷内墓地かと思ってしまう。いつもそのまわりにお供えがちらばっている。

お供えは「チャナン・サリ」と呼ばれていて、ヤシの葉でつくったおよそ10cm四方のお皿に、お米や花びら、砂糖菓子などがいれてある。

神様はいたるところにおられるので、たとえば通路が交差している場所とか、水に関係する場所とか、出入り口とか、車の運転席とか、もちろんこのサンガの周辺とかに毎日お供えする。

お皿をつくるのと、お供えするのは、主に女性、とくに女主人の仕事らしい。
API-APIでも、毎日女性たちがせっせとお皿をつくり、マデのお母さんが決まった場所に配ってまわっている。片ひざをついてお供えを置き、線香の煙を手のひらで揺らがせ、その手をかざして静かにお祈りをすると、次の場所に移る。

チャナン・サリは、それでもう役割を終えるらしく、後は顧みられない。誰かが踏んづけようが、蹴飛ばそうが、犬が食べちらかそうが、まったく無関心である。
決まった場所はたくさんあるので、いたるところにゴミになったチャナン・サリがちらばっている状態になる。バリの土は、ひょっとしたら歴代のチャナン・サリでできているのではないか、と思われるほどだ。

さて、屋敷の構成の話に戻る。
サンガの奥に、館がたくさんある。木造だったり、竹製であったり、ブロックにモルタルを上塗りしてペンキを塗ったつくりであったり、いろいろだが、なかにはタイル仕上げの壁のこともある。総じて、ひんやりして涼しそうなコテージである。ここに、どういう仕分けになっているのかはよくわからないが、一族郎党が分住している。多い家では、2~30人もいるらしい。

バリの人たちを見ていると、おもしろいことに、決まった時刻に集まって食事をする、という習慣がないようだ。家にこんなにたくさん人がいるというのに、そのうちの何人かでもがテーブルについて、「いただきま~す」などとやっているのは、見たことがない。
おなかが空いたら、適当な場所で適当に食事をする、という感じのようだ。
それで、いつもどこかの片隅で、だれかがお皿を抱えてなにかを食べている、という光景にでくわすことになる。
どこかの家にふらっと立ち寄ったときの、相手の挨拶は、それが2時であろうと3時であろうと

「スダ マカン?」

「ご飯食べた?」である。まだ食べていない、と言うと、食べさせてくれる。みんなそうやって、よその家でご馳走になっているのかどうかは知らないが、少なくともマデがAPI-APIできちんと定刻に昼食をとっている姿は、あまり見かけない。

と、話しが横道にそれてしまったので、表題のお話しは、次回につづく・・・・・