2009年7月8日水曜日

014 トノの場合


API-APIが完成して、附属家に管理人のマデ一家が住むことになったが、しばらくすると、男の子が一人増えていた。マデに聞いてみた。

「あれは誰だ」  「トノである」
「どこから来た」  「ジャワから」

要約するとこういうことである。正確な名前はスハルトノで、16歳。ジャワ島の出身。両親が亡くなって、兄さんと二人で流浪するうち、バリ島に流れてきた。兄さんは運良くどこかの家にもぐりこんだが、トノは行く所がない。何でも手伝うので、API-APIに置いてもらえないか。

トノは、怠けがちなマデのアシスタントになって黙々と働いた。
ある夜のこと。蚊取り線香がほしいので、家の者を呼ぶとトノが起きてきた。

「ええと、モスキート・コイル」

通じないのでインドネシア語を一所懸命思い出して

「オーバットニャムッ、をちょうだい」

と言ったら、意外にも彼は

「アア、カトリセンコウネ」

と日本語で応えた。
驚いた私は、蚊取り線香のことも忘れてトノの語学力を取材した。

実は今、観光客に貰った教科書で独学で日本語を勉強している。英語はもう少しうまい。ジャワ語とインドネシア語は当然ネイティブ。マドラ島にいたことがあるので、マドラ語もできる。必要だから、バリ語も不便なくしゃべる。ドイツ語は片言で、日本語より下手。確かめる気にはならなかったが、大学でドイツ語を習ったわたしよりもよほど堪能なはずと思えた。少なくともわたしは、蚊取り線香のことをドイツ語でどういうのか、知らない。

「なぜ、今まで日本語をしゃべらなかったの?」
「だってナミさんが日本語で話しかけないから」

インドネシア共和国は2万近い数の島に300の部族が住み、350の言語が話されているという。ジャワ語やマドラ語のことは知らないが、インドネシア語とバリ語とはほとんど外国語同士の関係である。単語はおろか、文法まで異なる。他の言語も似たり寄ったりだろう。従って、トノは7ヶ国語を話す大変な国際人ということになる。

トノは寡黙である。夕暮れ時によく、テラスの端に立って長い間西の空を眺めている姿を目撃した。
フランスの人類学者レビ・ストロースによると「文明とは薄暗い室内でじっと静かに座っていられる能力」ということになるらしいが、そういう意味ではトノは大いなる文明人の風格を備えていた。ちょっと、バリ人とは違う、というとバリの男たちに恨まれそうだが、やはり、違う。

彼は、しばらくAPI-APIと他の家とジャワとの間を転々とした後、ウブドゥ村の外国人向けビューティサロンに就職して今に至っている。久しぶりに様子を見にいったら、立派な青年に成長して日本語も流暢になっていたが、やや神々しさが失われていた。残念ながら、少しバリ化したかもしれない。


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