API-APIが完成して、附属家に管理人のマデ一家が住むことになったが、しばらくすると、男の子が一人増えていた。マデに聞いてみた。
「あれは誰だ」 「トノである」
「どこから来た」 「ジャワから」
要約するとこういうことである。正確な名前はスハルトノで、16歳。ジャワ島の出身。両親が亡くなって、兄さんと二人で流浪するうち、バリ島に流れてきた。兄さんは運良くどこかの家にもぐりこんだが、トノは行く所がない。何でも手伝うので、API-APIに置いてもらえないか。
トノは、怠けがちなマデのアシスタントになって黙々と働いた。
ある夜のこと。蚊取り線香がほしいので、家の者を呼ぶとトノが起きてきた。
「ええと、モスキート・コイル」
通じないのでインドネシア語を一所懸命思い出して
「オーバットニャムッ、をちょうだい」
と言ったら、意外にも彼は
「アア、カトリセンコウネ」
と日本語で応えた。
驚いた私は、蚊取り線香のことも忘れてトノの語学力を取材した。
実は今、観光客に貰った教科書で独学で日本語を勉強している。英語はもう少しうまい。ジャワ語とインドネシア語は当然ネイティブ。マドラ島にいたことがあるので、マドラ語もできる。必要だから、バリ語も不便なくしゃべる。ドイツ語は片言で、日本語より下手。確かめる気にはならなかったが、大学でドイツ語を習ったわたしよりもよほど堪能なはずと思えた。少なくともわたしは、蚊取り線香のことをドイツ語でどういうのか、知らない。
「なぜ、今まで日本語をしゃべらなかったの?」
「だってナミさんが日本語で話しかけないから」
インドネシア共和国は2万近い数の島に300の部族が住み、350の言語が話されているという。ジャワ語やマドラ語のことは知らないが、インドネシア語とバリ語とはほとんど外国語同士の関係である。単語はおろか、文法まで異なる。他の言語も似たり寄ったりだろう。従って、トノは7ヶ国語を話す大変な国際人ということになる。
トノは寡黙である。夕暮れ時によく、テラスの端に立って長い間西の空を眺めている姿を目撃した。
フランスの人類学者レビ・ストロースによると「文明とは薄暗い室内でじっと静かに座っていられる能力」ということになるらしいが、そういう意味ではトノは大いなる文明人の風格を備えていた。ちょっと、バリ人とは違う、というとバリの男たちに恨まれそうだが、やはり、違う。
彼は、しばらくAPI-APIと他の家とジャワとの間を転々とした後、ウブドゥ村の外国人向けビューティサロンに就職して今に至っている。久しぶりに様子を見にいったら、立派な青年に成長して日本語も流暢になっていたが、やや神々しさが失われていた。残念ながら、少しバリ化したかもしれない。
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