ニョマンのことを忠告してくれたアナック・アグン氏にはじめて会ったのは、カティック・ランタンの村はずれの畑であった。彼はそこで、鍬をふるっていたが、初対面の私が歩いているところをみつけると、わざわざ畑の中から走り出てきた。
「API-APIは、なかなかよい家だ。ところで、あなたの友人が土地を欲しいときには、ぜひ私に言ってほしい。安く売ってあげる。でも、このことは人に言ってはいけない。それから、あなたと友人になりたい。いや、ビジネスではない。時々会話をしたい」
日本人はみんな土地を欲しがっている、と思っているらしい。
なんやかやで、翌日彼の家を訪問する約束をしてしまった。家の場所の地図を、土の上に小枝で描いて教えてもらった。
翌日、約束通り家を訪ねる。家には、本人とその妹のライ嬢が待っていた。
アナック・アグン氏は、自分の持っている土地の話と、絵の練習をしている息子の自慢話と、ニョマンの悪口の話をした。
妹のライ嬢は、とても口数の多い女性だ。機関銃の玉のような勢いで自分の身の上話をした。
「私は今、大学の語学の授業に通っている。日本語の辞書が欲しいのだがなかなか手に入らないので、まだ日本語は全くしゃべれない」
バリの人は教育熱心だと、いろいろな所で聞いた。確かにカティック・ランタンのような田舎の村で、裸足で生活し、日々道路端の水路でマンディ(沐浴)を楽しみ、神様に与えられた人生を陽気に全うしているとしか見えない彼女が、実は大学に通って日本語の勉強をしているのである。
「それから私は、授業料を払わねばならない。ところが働く時間がないので、家で竹篭を編んで、時々それを売って授業料に当てる。家はご覧のようにアバラ家で、夜雨が漏ることも・・」
と嘆いて見せて、さらに彼女は続ける。
「さて、あなたはこうやって約束を守って我が家に来てくれた。そこで、私の編んだ篭をプレゼントしたい。これは奥さんに、こっちは娘さんに。もちろんお金はいりません。本当は、授業料に当てるのだけれど・・・。普通はひとつ2万ルピア(これは相場の殆ど10倍)で売っているのだけれど・・・」
ここで私は、話を割って、単刀直入に確認しておかねばならないと思った。
「あなたは、辞書とお金とどちらが欲しいのか」
彼女は胸を張って、嬉しそうにこう答える。
「一番大事なのは辞書。その次はお金」
兄貴はこちらのやりとりには興味がないらしく、横を向いて、床に寝そべった犬の体を撫でている。
この家にも例によって動物が多い。見渡しただけで、犬が4匹、珍しく子猫が2匹、鶏が3羽。それぞれ仲よく共存している。
私は辞書の方を選んで、それでは次回にもってきてあげるから、と約束して席を立った。
3人で裏に止めた車の方へ向かうと、そこにはさらに1頭の豚と、おびただしい数の鶏が餌を漁っていた。車に乗り込むときに、これは篭のお礼だと言って少し心づけを手渡したら、彼女は大いに喜んだ後で、こう言った。
「しかし、あなたは辞書のことを忘れてはいけない」
それは自分の権利である、とでもいうように。それ以来、道で会うたびに辞書の督促を受けるはめとなった。彼女は立派だ。逞しいだけではなく、いつもきりっとした目をしている。私の権利だ、と。
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